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〔1〕
『いでやこの世に生まれては幸多かるべき事あかんめれ(さてはこの世に生まれた以上は幸が多い事に越した事はない)』
香田は記憶の片隅にあった清少納言か吉田兼好だったか忘れたが、そんな一節をふと思い出す。
(なぜ、今頃、こんな文が浮かぶ!?)
香田は高校時代の古文の授業が大嫌いだった。訳も分からずに単語の意味や活用形を覚え、試験だけに対応していた。これが同じ日本語かと怒りが込み上げてきた事もあった。そんな大嫌いだった古文の一節が今頃になってなぜ?脳の不思議な構造にシニカルな笑みを浮かべ、自宅へと憂欝な足取りを進める。
香田秀俊(こうだひでとし)は東京都内の小さな広告代理店に勤める38歳。再婚しているが子供はいない。だが、これには語弊がある。『現在はいない』と言った方が正しい。1年程前に交通事故で2歳の一人息子を亡くしていた。
足取りが重かったのはこれにも要因はあるのだが、最大の原因は妻の美希がすっかり変わってしまった事にあった。
1年程前、香田は妻の美希、息子の貴裕(たかひろ)の家族三人で東京近郊の行楽地に紅葉を見にドライブに行っていた。悲劇はその帰り道に起こった。行楽地から戻る山間(やまあい)の二車線の道を走行中、見通しの悪いカーブで反対車線を飛び出して来た中型のトラックと正面衝突をしたのだった。
原因はトラックの運転手の前方不注意。
右側から衝突された香田の自家用車は下から右側を持ち上げられ、左側のタイヤのみで片輪走行をした後、左側から激しく横転を始め、何度かそれを繰り返した後にガードレールでやっとのこと止まった。
香田はシードベルトをしていた為、ムチウチちとハンドルに胸を強打、それから左手と左足の骨折の全治三ヶ月の重傷、そして、妻と息子は…
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