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利家は前田家の4男に当たるため全くの異例だった。
そのため、前田利久、養子の慶次らは流浪の身になった。本当なら利家に養って貰える事も出来たのだけれども、利久は意地でも兄という立場で世話になりたくなかったのだろう。
慶次は人生の出発地点でつまづいたのだった。
これが傾寄者への原因の一つだといわれる。
利久が荒子城を与えられなかった理由はもう一つある。それは前田利久が武術に向いていなかったどちらかというと地主のような治に向いていたのだ。それも原因と言われる。
それらのことが前田慶次を『無念の人』とし、今後の人格構成に大きな影響を及ぼしたと言われる。
慶次の叔父、滝川左近は織田信長を史上初の鉄砲使いとして有名にしたのはこの滝川左近だった。戦の先鋒と言えばいつもこの滝川左近だった。
現代の暴走族の『特攻隊』みたいなモノだ。
その左近の特効部隊で滝川儀太夫益氏はさらに先鋒を勤めた。
それだけ左近に信頼をおかれていたと言うことになる。また滝川儀太夫益氏は勇猛無比の『いくさ人』だった。だからその子供の慶次が末恐ろしい『いくさ人』になるのだ。
その滝川軍に慶次は流浪の間所属して儀太夫の戦ぶりをみて戦を学んでいたと言う説がある。
これはうなづける人は少なくないと思う。
何故ならば慶次は異色の戦ぶりで有名だった。
それはどんな負け戦も慶次が出陣するとたちまち勝ち戦になってしまう。
その理由がまた面白い。
慶次が一度切り込むとと真っ二つに敵陣が割れてしまう。
他の騎馬の数倍の速さで数倍近く長く重い朱槍を振り、数倍近い速さで直進していくのだ。
この朱槍は大の男2、3人でやっと持つところを慶次は敵の切り込みをまるで柳を払うかのように振り回すのだ。
これには敵も恐れをなして逃げ出し、たちまち陣形が崩れてしまう。そこへまともな陣形の慶次の軍が攻め込むと更に陣形は崩れ、負け戦がたちまち勝ち戦になってしまうのだ。
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