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そして豊臣秀吉が天下を治める頃にはすでに慶次の武勇と『傾寄』ブリは有名になっていた。
また慶次は滝川家が滅んだときには望めば、どこの武将の下にでも行けた筈だが、敢えて慶次は前田利久の下へ帰った。
それにはあるエピソードがある。
それは夏の日差しの暑い日の荒子城での戦の時であった。城の周りは敵に囲まれ、戦が長引いた時喉が乾くといつもの戦なら水を飲み、水が無くなれば小便を飲んだ。所が喉が乾きすぎて小便も出ない。
そんな時利久が
「ワシの血で口を拭え」っと自分の肩を脇差しで切り裂き流れ出る血で慶次の口を潤わせた。
この時慶次は利久を実の父と感じたのだ。
この様な事から利久の下に帰ったと思われる。
これが慶次の生い立ちだ。
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