11人が本棚に入れています
本棚に追加
とある朝
霧の深い朝
光の薄い朝
ひとつの黒い人影が歩いていた
影は
夜の闇よりも黒い
朝に浮かんだ真っ暗な人影は
大きな屋敷をめざしていた
荒れ果てきった人里で
いくさに荒らされ犯された
人の姿のない村で
たった一つ聳え立つ
宴の笑いの音のたつ
雅な館に足を向け
影はぽつんと歩いていた
館の前で槍を構えた
いかつい面構えの門番は
大柄な二人の門番は
館に近づく影を咎めた
おい
と声をかける間もなく
門番の野太い喉を
疾風の刃がつるりと通った
あっ
と声をあげる間もなく
二人いたはずの門番は
音もなく地に臥した
影は
何事もなかったかのように
するりと館に入っていった
やがて大きな大きな館は
たった一つの影に支配された
幾人もいたはずの館の守り手
選りすぐったはずの剣の猛者達
影の刃に音もなく
鍛えぬいたはずの力と技が
儚くも露へと消えた
影の刃はあまりに速く
舞っているはずの鉄の刃が
強く重いはずの刃が
誰の眼にもとまらなかった
館の主は慌てふためき
影に命乞いをした
『これから大きないくさがある
是非とも勝たねばならぬいくさ
勝てば悲願の叶ういくさ
今日この日に死ぬわけにいかぬ』
涙を流して訴えた
影はたったひとこと
“そうか”
とだけ言った
館の主はほんの一瞬
わかってくれたかと安堵した
ほっとため息ついた口元から
赤い流れがほんの一筋
哀れ雅の館の主は
崩れるように絶命した
一時前は栄華にあった雅の館
今は無人の静かの館
影は音の一つもなく
何事もなかったように
静かの館をあとにした
後日
戦には影武者がたてられた
味方は三万
敵は三千
負けるはずのない戦
敵の見事な奇襲により
勝敗は逆転した
雅の館の主は
ほんの数日だけ
寿命が縮んだだけだった
最初のコメントを投稿しよう!