或る女

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「とっととお帰りなさいな!トロい男ね!」  彼女が怒鳴りこちらにまで内容が聴こえてきた。あれは俺が言われてるんだ。あれはもう他人だ。いつまで他人の痴話喧嘩を見ているんだ。自分に言い聞かすが身体が思うように動かない。  やがて彼女は男ではなく車を蹴りだした。どうみても場所をずらしながら蹴っている。あれは復讐だ。俺に対する怒りだ。ボコボコにしたくてたまらないのだ。段々遠巻きにギャラリーが増える中、気付かれない内に逃げなければ自分が蹴られるような気がしてきた。男も泣きながら必死に謝っている。あれは俺にしたいされたいことをしているのだ。見つかったら殺されるかもしれない。俺の手は酷く汗ばみ逃げ出したくてハンドルを握り締めている。でも目が放せないのだ。最後までみる義務を感じる。怖い。怖い。怖い。あれは俺だ。俺に隠していた怒りだ。自分が青ざめているのを感じる。同時に心を酷く揺さぶられているのも感じる。これは恐怖なのか興奮なのか最早把握できないくらいかきみだされている。  彼女が大きく回し蹴りを高級車にきめて、大股で歩きだした。こちらに向かっている。見つかったのか。一体どうして見付けられたのだ。執念か。恨みがそうさせるのか。力強い歩調は確実に怒りを踏みしめている。美しい顔にかかる前髪をかきあげながらコツコツとピンヒールを鳴らしてこちらに歩いてくる。  逃げられない。  唾を飲み込み彼女の第一声に応える為に準備をする。謝ろう。ごめんなさいと言うのだ。あの男みたいになるかもしれない。いや、なるのだろう。彼女のことは愛していた。ごめんなさいだなんて火に油を注ぐのではないだろうか。なんていえばいい。  迫る彼女を真っ直ぐ瞳に捉える。今でも愛していると、そんなことを言ってみたらどうるのだろう。  すれ違う少し手前で彼女ははっと息を飲み、恥ずかしそうに俯いて小さく走り通り過ぎていった。声をかけれずにいた俺は安心したのか残念なのかわからないまま、緊張からしばらくとけずに動けずにいた。  男の泣き声が聴こえる。ヒールが地面を蹴る音が遠く離れて消えていった。
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