序幕

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   さあ、時は満ちた。  愉快な悲劇を、始めよう。  ◆ ◆  降り注ぐ一切の光を遮断するような、不恰好な木々に覆われた土地。昼間ですら夜の色を持ち続けるそこは、人を受け入れるにはあまりにも無粋であった。  その暗い夜の森で、荒い息遣いが響く。鬱蒼と繁る暗闇の中を、フード付きの白い外套を纏う影が疾走していた。風にはためく外套は薄汚れ、所々に黒ずんだ血の跡が残る。その裾は穴だらけで解れ、人影の腕には鎖の巻きついた黒鞘の長い刀が抱かれていた。  駆け抜ける影が、また一歩とその足を踏み出した刹那、木々の間から黒い塊が飛び出した。底光る二つの鋭い眼光、獣だ。一匹の大きな野獣が人影の行く道を塞ぐように構えていた。踏み止まった人影の外套の裾が風で踊る。  万事休すか――。  だが、人影には場違いなまでに焦燥の色がなかった。 「グルルル……ッ」  獣は獰猛な唸り声を上げ、優位者の表情で舌舐めずりする。全身の毛は斑な褐色で、手足の甲には貴金属の装飾が施されていた。首には強靭な体躯に不釣り合いな白い首輪を嵌めている。  獲物を見付け、嬉々として口から吐き出す浅い息と共に、真っ赤な舌がちろちろと炎のように覗いた。 「『合成獣(キメラ)』、か」  ぼそり、とそこで人影が初めて言葉を発した。刀を抱く腕に力を込めながら、少女のものであろう美しいソプラノを奏でる。  そして何を思ったのか、不意に彼女はフードを外した。外套の合間から溢れた長い髪が靡き、暗闇でも分かる、冴え渡るような深い蒼氷色の双眸が露になる。  その瞳とかち合うと、獣は途端に怖じ気付いた風にその少女を見つめ返した。牙を剥いて唸りながら頭を垂れ、警戒心からか、数歩後退する。獣の行動は、弱者が強者に脅えるそれであった。 「そう、いい子だね。大丈夫、何もしないから」  今まで走り続けていたことにより弾んだ息を直ぐに整えると、獣と目を合わせたまま彼女はゆっくりと口を切る。 「貴方はどうしてこんなところに居るの? この森は『白の国』の近く……見つかったら、危険だよ」  やはり双眸の蒼はどうしようもなく強かったが、その声は何処か憂いを含んでいた。  彼女に『合成獣』と呼ばれた獣にもそれが伝わったのか、何なのか。唐突に剥き出しにしていた牙を仕舞う。獣の少女に対する先程までの恐怖や警戒の色は、すっかり薄れてしまっていた。
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