序幕

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  「とにかくこっちへ来い! そこに居たら、いつ崩れるか分からんぞ! おい、早くしろ!」  幾ら呼び掛けても微動だにしない少女に、隊長格の男は焦りを隠すことが出来ない。大声で怒鳴ってはみたものの、やはり彼女からの反応はなかった。目深に被ったフードのせいで、その表情も窺えない。  けれど、次の瞬間、前触れなく少女が動いた。今までずっと腕に抱いていた刀を両手で掴むと、思いきり地面に振り下ろしたのである。今にも崩れそうな崖に止めの一発。その後どうなるかなど、言うまでもないことだ。 「なっ……何をっ!」  ピシピシと崩壊音。後ろで控えていた兵士たちは我先にと、崖から退避する。躊躇いはあったものの、彼らとて、こんな鬱蒼とした薄暗い場所で見ず知らずの少女と心中なんて御免蒙りたい。  少女は彼らの慌てふためく様を冷めた目で睨め付け、ゆっくりと透き通った声を響かせた。 「さようなら。貴方たちが崇める王には『崖から飛び降りました』とでも報告したら?」  少女が言い終わると同時に、強い風が吹き、少女が深く被っていたフードが外れ、煌めく銀髪がふわりと広がった。  少女の異様なまでに整った、作り物染みた美しい容姿と、深く底光りする蒼氷色の瞳は、一瞬で兵士たちを魅了する。冴え渡るような蒼色の少女は、その崩壊音を背負って立つには十分過ぎる美貌の持ち主であった。  彼女は口端だけ歪めて、不敵に嗤笑する。  その瞬間。  立っていられない程の激しい揺れが辺りを襲い、亀裂が広がり――耳を塞ぎたくなるような大きな音を立てて、崖先は見事に崩れ落ちた。 「くそ……っ!」  手を伸ばせど、もう遅い。  身体は重力のままに、下へ。  悲鳴すらなく、少女は墜ちていった。  崩れた崖が派手な水飛沫を上げる。全ては荒ぶる波に呑まれ、何事もなかったかのように沈黙。  ただ呆然と、唸り声を上げる崖下を眺める兵士たちを、柔らかい光が包み込み始めた。暗かった崖際に光が差し込み、夜が開ける。孤高の蒼月は、既にそこになかった。  ◆ ◆  さあ、崩壊へと向かう悲劇の舞台の幕は上がった。  後はただ、終幕(バッドエンド)を待つだけだ。
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