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天正10年5月17日。
家康きょう応(相手を招きもてなす宴会)の準備を終え、やんやの宴席が終わるや、明智光秀ら十数騎は暗うつに、居城である坂本への帰途を辿っていた。星が見えぬ曇った空の下、皆がいつ降るか分からぬ雨を気にして足早に歩を進めている。
そんな中、ただ光秀だけは真直ぐに前方を見やり、うつろに物思いにふけっていた。
前日信長が光秀に付けた傷は思うより深く、響きうずく。その痛みはその身を割く程に甘く、残酷だった。
「殿……雨が」
後ろから寄って来た溝尾庄兵衛が低い声で言うと、小姓を通して雨合羽を手渡そうとする。
険しい山道は雨に濡れれば馬蹄が滑り、進行が遅れる。だが、その日の雨はまるで光秀の心の内を映す様に静かで、そして柔らかだった。
「良い……しばらく雨に打たれたいのだ」
合羽を渡そうとした小姓を手で制しながら、光秀は眼を閉じて、過去へ思いをはせた。
――山陰へ。
信長の金属的だが絶対性を持つ声が光秀の心を縛ろうと這い寄る。
――信長様……。
目を開け、振り仰いだ先の、暗い空。
――もう、私は……。
己を賭けた程の思いをはかる。白銀の糸の落ちる先、滴る温い雨粒の果てを。
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