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そんなものは弥平次には不要だった。
目を奪われるような黒髪の艶やかさ。白いうなじ。唇を辿る長い指。意外な力強さに反して細い腰、しなやかな肉付き。──とろけるような微笑みも。
たあいないものや機密事項であろうが、関係なく劣情を煽る密やかな囁きが、自分にだけ向けられた喜び。
征服や蹂躙を考える事さえ出来ない知略と不屈さに心酔するしかないその人は、恐らくその人にとっての主のためにこれから命を捨てる。
捨て、ようとしている。
この闇夜の中でどれだけ奮闘しようと、挟み撃ちという卑劣な罠に落ちた織田軍には到底勝ち目はない。光秀は殿の中でも真っ只中に残った。死を免れ得ぬ、奈落の底にいるのだ。
敵の焚くはぜる松明を幾つも打ち倒し、哮りながら。後ろを走る利三がちらりと目に入った。その顔は平然としてまるで心配などなにもないと言うようで。
利三は光秀の一族と姻戚であることを弥平次はよく知っていた。寧ろ、利三は光秀に極めて近い立場の、もし有るならば家老筋の男なのだと、弥平次は光秀以上に知っていた。
光秀と同じく、将軍直臣の端に名を連ねようかという、近さ。
──其れなのにこの男には光秀様の事などどうでも良いのだ。……己第一の男なのだ。
其れなのに光秀は弥平次をこの男に託した。弥平次の目の前で。頼むと。それを打ち消したくて先を進む。涼しい顔で、請け負ったとも言わなかった男より先に。
何になのか判じかねる腹の煮え。
弥平次は己の頬を伝う水滴にさえ気付かず、暗がりの街道を駆逐せんばかりに穂先を振り上げ続けた。
空が白んで、弥平次達は漸く包囲網を抜けた。大凡三刻を駆け抜けた訳である。振り向けば信長に随従しているのは僅か数十騎に過ぎなかった。その内の半数以上が最早動けるのが不思議といった体である。
誰が見ても勝てると疑わなかった戦は、蓋を開ければ全くの、大敗。逃げ延びる様は項羽の最期か義経かと笑いたくなる。
味方と、思ったことが愚かだったのか。
弥平次も無傷ではなかった。口惜しいことに、後ろにあった利三が居なくてはもうこの世に居なかった事も解っている。
それでも。
駆け足で峠を進む。
弥平次は虚しさに打ちひしがれて、悲壮だった。
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