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信長のもとに浅井長政から書面が届いたのは四月二十六日深夜であった。そこから信長は即時撤退を決定した。となれば背後からの挟撃を鑑み、その退路は──多少遠回りながら、敦賀から三方、朽木へと抜ける敦賀街道しかない。
しかし信長等が居るのはまだ三方を漸く過ぎた辺り。せめて朽木を越えねば息もつけないまだ完全に気は抜けない。確実に逃れるために走りに走り、前を駆ける者が誰かさえしかと判らぬ儘、弥平次は打ち掛かる相手をはねのけて、此処まできた。とは言え、まだ朽木谷の陰も見えない。
それでも、駆け足ではあれどこうして白む朝日を見上げれば胸に去来する苦しさと虚しさが止まらなくなる。
それでも──時折ふらつく身体を必死で奮い立たせるのは……光秀の最期の望みのためだった。己の主だった男は、明智を再興するために命を懸けたのだ。それを半ばで放り投げてはならなかった。
もう直ぐ、おのれは明智の頭領となるのだなど、思いはすれど其れは夢より身のない籾殻より軽い戯言のようであり、悪夢だった。
望んだことさえない地位に、怒りより……考えたくもなかった嬉しさより、暗闇を歩くような不安感を感じて、弥平次の手綱さばきは揺らいだ。
──その時だった。
「雑兵、その体では主さえ見えられず死ぬぞ」
声高で、横柄で、威圧的で、逆らい得ぬ、刃のような断言。
その声が誰に向けられたものか、弥平次は暫く分からなかった。数騎後ろから投げられた声が『誰』なのかということが。
「貴様の主が俺の許しなく死ぬわけが有るまい。さっさと進め。でなくば、意趣返しもできぬまま朽ちるぞ」
その声も無傷とはいかない。
弥平次とは正反対の。怒りに満ちた声が吐き捨てるように断じていた。
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