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光秀の意識が戻った時、そこは家康の陣中であった。それも早々に撤退しなくてはならないという場面である。それはもう信長を逃がしている以上必要がないからであり、こうして百を越す軍がうかうかと屯していればただの標的となってしまう。
訳ありの男を構っている場合ではないだろうに、相変わらず情に篤いらしい家康は怪我がいえるまでと声を掛けてきたが、そこまで甘えられぬと固辞した。
慌ただしい中を逆方向へと駆けようとした。が。京へ向かうならば単騎で行くのは危険だとつけられた細身の、どこか暗い赤間に似た雰囲気の男。それを連れ、だがそんな心配をよそに光秀はまるで何事もなく入京した。
古からの、都。
そこはもうぬらぬらとしたいさかいへの期待や欺瞞が満ちた場所ではなかった。明らかに敗戦を嘲りながらもおろそかには舌の上に乗せられない、非常にぎくしゃくとした空気が満ち満ちていた。
要するに。
煮えたぎる鉄火の鍋が噴出するのを、町人は知っていた。
捨て置くような人の良い男は、彼らの誰でさえ上に立たせ得ない。
ただ。
「待てよ。あんたが先に行かなきゃならないのはさあ、あのお屋形さんとこだろ。自分ちなんか、後々」
二人は馬を適当な馬場へ預け、裏通りを急いでいた。家康が整えた着物はまだあれから日の浅い事もあり帰京する敗残兵達と変わらない。ただ傷もなく、綺麗過ぎはしたが。
男はごく軽く、しかしめったに聞きつけられはしないだろう程か細い囁きで光秀に告げた。
言葉は明るいがその声音は全くの他人事。口惜しいほどに心を窺わせない無邪気そうな、笑顔。無論光秀より幾らか若いに違いないが、とても深謀遠慮にたけているとは見えない。
だがあの少し頼りなげに見える家康が付けた男だ。
家康が。
もしあの三河に在ってただの男ならば弓取りの下から頭角を現せたはずもない。持ち上げられてもあの叛乱だらけの国を治められる筈がない。
自分にはできなかったことを成す者はその考慮に一目あってしかるべきであり、つまりこの男がただの男であるはずがない。信長が一目置き、かつ後ろを任せたとしても、其れを心から賞賛することはできない。だから。
ーーーこの男が信長様を暗殺しようとしても、何も意外に思わない。
光秀は囁いた男を仰いだ。
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