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その夜のおれは、後で冷静になってみると自分でも羞恥してしまうほど、いつものおれではなかった。
執拗に彼を求め、過剰なほど彼を愛撫し、決して言ってはもらえない彼からの言葉を欲した。
「…もう、無理」
彼の限界を告げる言葉を遮り、解放を遮り、今にも溢れそうな欲望の波を堪える。
「…手、離して…」
彼の懇願を無視し、おれは彼を更に追い詰めた。
好きだよ。
愛してる。
そんな言葉を言ってもらいたくて。
掠れた喘ぎ声と波の音。
高いワインと寝心地のいいベッド。
十年分の彼の笑顔。
おれを高ぶらせる要因はたくさんあった。
「…愛してる」
互いの熱を迸らせた後、おれは彼の体の上で弛緩しながら、自らその言葉まで発してしまっていた。
一度口にしてしまったら、あとは容易い。
おれは商店街の魚屋のオヤジが「安いよ」と連呼するかのように、その言葉を繰り返していた。
そして彼は腕の中で呟く。
「ありがとう」と。
気だるい朝を迎え、おれがベッドで目覚めたとき、そこには彼の姿はなかった。
枕元に小さなメッセージカードだけ残し、彼はいなくなっていた。
『誕生日、おめでとう』
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