20人が本棚に入れています
本棚に追加
陽は理解できなかった。脳での処理能力が足りないわけではない。彼の頭の中で『あり得ない』ことが重なり過ぎたのだ。いきなり本や映画の世界の住人であるケルベロスが現れ、それを日本刀で切る女性。彼女が何故この暑苦しい夏にコートを着ているかなど、どうでもいい問題だ。ケルベロスは消滅し、最後にはいきなり見ず知らずの女性に、自分は死んでいる、などと言われたのだ。
できることなら、これは夢であって欲しい。いや、そうあってくれ。
彼女が陽に話しかけてくる。
「あなたはやはり変わっている。こんな事態が起きたというのに、心拍もろくに上がらず、冷静に物が考えられるなど。でも、残念ながら、これは現実。夢ではない」
――何?何故、俺の考えていることがわかる?――やはり、これは俺の夢か幻覚だ。そうに違いない。
「現実逃避するのは別に構わない……」
彼女は陽に近づくと、カタナを陽の顔の目の前に突きつけてきた。金属特有の無機質的な質感が鼻の辺りを中心に伝わってくる。鼻の先に全身の血流が集まってきているようだ。
「これで切られれば、これが現実かがわかる。やってみる?」
陽が困惑し黙っていると、無表情のまま、彼女は薙ぐように刀を振った。鈍い光沢を放つ刀身が陽の頬を撫でた。頬から熱を感じる。一縷の赤い液体が陽の顔を流れた。
「夢や幻覚に痛みは存在しない。わかった?これは現実なの」
彼女は流れるような動作でその刀を鞘へと納めた。カチン、と音がする。
頬にあるのは間違いなく痛みだ。手を当ててそれを見ると、ヘモグロビンの鮮血色で濡れている事が分かった。この痛みは間違いなく本当のものだから、彼女の言うとおりこれは現実なのだろう。現実感は全くないが。
ふと、音が聞こえた。正確にいうならば、規則的に聞こえてくる、錆びた金属同士が擦れるような、自転車を漕ぐ音。どうやら、こちらに近づいているようだ。
「……警官か。見つかったら厄介なことになる。あなた、ついて来て」
真夜中の公園で男女が二人で向かいあっていれば誰だって怪しがる。ましてや彼女など、この暑い八月に全身真っ黒なものを着ていればなお更だ。
彼女はコートを翻し、早足で歩きだした。陽は行くべきか行かざるべきか躊躇っていた。そうだ、このまま引き返せば今あったことを全て忘れられるかもしれない。
最初のコメントを投稿しよう!