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その昔、京と近江を繋ぐ街道沿いに、満幸寺という大きな寺があったことは、歴史学者の間でも、あまり知られていない。
現在の地図でいうと、京都と滋賀の県境に位置するその寺は、時の将軍徳川家康の命によって、一夜にしてその姿を消した。
そして、歴史上からもその名を抹殺された寺である。
坊主は斬首の後、骨が灰になるまで薪がくべられ焼かれたといわれている。
石像は砂になるまで叩かれた。仏閣もまた灰になるまで焼かれ、塞銭、宝もつとてその例外ではなかった。この任務にあたる者には、着服を禁じ、全てを焼き払えとの厳命があったというから、家康の満幸寺へ対する、いとわしさの程度が窺える。
灰は全て集められ、琵琶湖に撒かれた。
跡地には高札が掲げられ、こう記されたという。
【此処は満幸寺跡地にあらず。無用の流言するもの一族郎党にまで及んで死罪とする】
記憶からも消せというのである。
人々はおそれ、満幸寺の名を語るもの誰一人いなくなった。
かくして、人々にも忘れられ、満幸寺は歴史上から姿を消したのである。
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