ライン引きが通る 

4/5
前へ
/255ページ
次へ
     小さな暖炉の火を焚くお爺さん。その隣に、私はいました。  お爺さんは私に訊ねます。 「はて。坂とは、どこの坂かな?」 「ここに来るまでに通り過ぎてきました。大きな杉の横の……」 と言うと、お爺さんは「ああ」と頷きました。  暖かいと感じる程に、小屋の温度は上がっていました。  小屋の窓から、外の景色が覗く。それを見て、私は雪に気が付きました。 「吹雪くね、これは」 お爺さんは呟きながら、お湯を沸かし始めました。  次に口を開いたのは、私でした。 「お爺さん。あの坂に、ラインを引いて頂けないでしょうか」 私自身、何を言い出すか、と内心で呟いていました。 「あの坂は、恐らく……険しい」  お爺さんは、その時点で登らない意思を提示していたのでしょう。 続いてお爺さんの口から発せられた言葉は「一人で行くといい」でした。 予期せぬ回答に、私はあたふたしました。 「無理ですよ」 と、大げさに首を横に振ってみせました。  そんな私の動きを無視して、お爺さんは小屋の隅に置かれたライン引きを指差す。 「あれを、引いて行きなさい」  それからお爺さんは、私の言葉に反応してくれなくなりました。 お爺さんは、暖炉の上に置かれたヤカンを黙って見つめています。  私は、悩んだ。 私が、ラインを? 道のない道に、一人で? それは恐怖でした。  私は生まれてこの方、白線の上を歩んできました。 それが正しいと学び、貫き、ここまで来たのです。 私はずっと列の中にいて、先頭に立つ人の気持ちなど、思い浮かべるだけで。 そんな、人間なのに……。 そんな……そんな私に、ラインなんて引けるわけが……。  右頬に感じた温かい感触。振り向いてみると、お爺さんがマグカップを私の頬に押し当てていました。 「外は寒いから、飲んでお行き」  ココアの湯気が、……甘い。 お爺さんが隠した「行け」の合図だと思いました。そう解釈した私は、きっとそれを望んでいたのでしょう。  私はココアを飲み干し、小屋を飛び出しました。 お爺さんの温もりに背中を押されて、ライン引きを押し始めたのです。  小屋の外は、吹雪いていました。雪が薄く積もり、ライン引きが進みにくくなっています。 それでも私は、ライン引きを押す。  私のライン引きが……通る。    
/255ページ

最初のコメントを投稿しよう!

186721人が本棚に入れています
本棚に追加