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録画猫
「ねぇお祖父ちゃん。誕生日に何が欲しい?」
幸恵の声は年老いた私にも、聞こえやすい大きな声だった。
「ああ……。もうそんな時期か」
「お祖父ちゃん自分の誕生日も忘れたの?」
「はて。覚えとらんのう」
明日が自分の誕生日だと言うことぐらい、まだ忘れないでいる。
幸恵をからかおうと思い、少し呆けたふりをしてみせただけだった。
「私の誕生日だって覚えてるのに、お祖父ちゃんが自分の誕生日を忘れるわけがないじゃない」
幸恵は右手の腕時計をちらつかせた。先月、彼女の誕生日に私がプレゼントしてあげたものだ。
今年で私は米寿を迎えようとしている。この歳の男性にしては、自分は記憶力が衰えていない方だと思っている。
「あ。じゃあ日記帳なんてどう?? お祖父ちゃん記録関係のもの何も持ってないでしょう」
「必要ないから持っていないんだよ」
事実、ビデオカメラすら持っていない。
生涯記憶に不自由してこなかった私は、思い出を形に残す行程をめんどくさがった。
「じゃあ遺書は?? ふふ、それは直に必要になるんじゃない?」
「冗談はよしておくれ」
けたけたと笑う幸恵の笑い声も、私には聞こえやすい。
「それじゃあ。仏壇に飾る花でも買ってきてくれないかい? 明日はお祖母ちゃんの命日でもあるんだ」
突然止んだ笑い声の後に「わかった」と幸恵の声。その声は聞き取りにくかった。
幸恵は早速買い物袋をぶら下げ、買い物に出掛けようとした。
玄関に向かった幸恵が「まあ」と驚いて上げた声は、寝室にいる私にも届いた。
「お祖父ちゃん、お客さんよ」
呼ばれたので玄関に出向いてみると、そこには小さな訪問者が座り込んでいた。
――猫だ。部分的に栗色の斑点があるブチ猫だった。
そして、私はその猫を知っていた。
「そんな……。まさか。ブッチじゃないか」
ブッチは六十年前に姿を消した、居候猫だった。
六十年も猫が生き長らえられる訳がないが、その姿はブッチにしか見えなかった。
「この子ブッチって言うの?」
「ん? いや、人違い……ならぬ猫違いかもしれないが」
ただどうしても気になったことがある。
それは猫の首輪にぶら下がる真紅の鈴が、私がブッチにプレゼントしたものと全く同じものであったことだ。
鈴に刻まれた「ブッチ」の文字がそれを証明しているかのようだった。
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