ラブフィニティ

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あの時、恐怖よりも、迂闊〈うかつ〉だった自分への失望感や焦りが強かった。 そしつ過剰な暴力に対しての怒りよりも、自分自身に対する怒りの方が大きかったのだ。 けれど、そのおかげでしぶとく自分を損なわずにいることができたのかもしれない。 人を殴った時から、殴られる覚悟はあった。 仕返しという理由なら、たとえ一対一でなくとも自業自得だと諦めもつく。 晴子だった頃に電車で痴漢にあった時の方が、恐怖や怒りは大きく、心は昨日よりずっと恥辱や不信に震えた。 でもこうして思い返すと、やはり恐かったと思うし、これくらいですんでよかったとほっとする。 障子を透過する陽の光に朝の気配を感じて目を開く。 頬に昨日のような違和感はなく、腫れがひいたのを感じたが、体はまだあちこち痛い。 そうはいっても、いくら冬休みとはいえ、このまま滝田の家で年を越すわけにもいかないと、キョウは身を起そうとして、首をめぐらし固まった。 (ひっ) 思わず出かかった声を飲み込み、キョウは目を閉じ、ゆっくりとした呼吸を数度繰り返してから再び目を開いた。 だが、キョウの期待を裏切り、先と変わらない異様な光景にキョウは目を見張った。 (朝から幽霊?) 畳の部屋を包むやわらかく温い光の中に、赤い振袖を着た髪の長い女の人が滝田の寝ている布団の上に、滝田の顔を覗き込むような態勢で正座していた。 女の人の下敷きとなった滝田は、白い指に口を押さえ込まれて、こもったうめき声をあげながら、その手から逃れようと首を動かしている。 「静かにおし」 東洋人離れした肉厚で大きめの唇を歪め、長くて量の多い睫毛を瞬かせながら、そう呟くのを聞いて、キョウの背筋は凍った。 いつの間にか、かち合った視線を交差させてキョウは、金縛りにあったように身動きがとれず、彼女の、邦人には見えない明るいベッコウ色の瞳を見つめた。 「ワオ、グッモーニンダーリン」立ち上がり、滝田を踏みつけてこちらにくる着物女性は、キョウの枕元に両膝をついて、両手でキョウの顔を掬い取ると、頬に音のするキスを繰り返した。 「ハイ、ハニー」と言って抱擁すればいいのだろうかと、六割も機能していない脳で考えながら、キョウはされるがままにキスを受けていた。
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