「追跡」

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ゾクッとした。一瞬歩調が乱れる。 鋭利な刃物。 そんなものがどこから来るのか。 決まっている。ここには俺と師匠の他には、あの人しかいない。 コツコツと足音が背後からついてくる。背中の師匠が邪魔で後ろが見えない。 だが、そこにはあの人しかいないじゃないか。 すべてが繋がって来る。 『追跡』の中の主人公は、一人で行動しているように見える。だからこそ現実で同行すると言い出した彼女の役割はただの観察者に過ぎなかったはずだ。しかし、妙な引っ掛かりを感じていたのも事実だ。 冒頭のゲームセンターのプリクラ。 これはまだ良い。一人で撮る変わった奴もいるだろう。 雑貨屋やら喫茶店、ボーリング場も一人で入ったって良い。 けれど、ラブホテルだけはどうだ。『追跡』の主人公は果たして一人で部屋に入ったというのだろうか。 『追跡』は極端に省略された文章を使っているが、もしかすると意図的にもう一人の同行者の存在を隠していたのかも知れない。 つまり、彼女の役割はイレギュラーな観察者などではなくれっきとした登場人物なのかも知れないじゃないか。 俺は神経が針金のように研ぎ澄まされていく感覚を覚えた。 場所は図らずも、さっき"うしろすがた"に会った空き地の前だ。 師匠はむにゃむにゃとうわ言を繰り返している。その言葉は不明瞭でほとんど聞き取れない。 後ろ頭にかかる師匠の息が熱い。 『追跡』は師匠が刺される場面で唐突に終わっている。 バッドエンドだ。救いなど無い。 彼女は本当にこれに書いた内容を覚えていないのだろうか。この最後のページを見せないために、順番どおりに読んで行くべきだと言ったんじゃないのか。でも彼女はいま刃物なんて持ってるのか。いや、小さなバッグがある。そして彼女が雑貨屋で買ったものはなんだ? 血染めのピコピコハンマーをやめて、最後に選んだものはなんだった?  思考と疑惑が頭の中でぐるぐると回る。 足は、なぜか止められない。 彼女は今、後ろでなにをしている? そして決定的な時がやって来た。師匠のうわ言が一際大きくなり、俺にもはっきり聞こえる声が、こう言った。 「……綾……」 その瞬間、時間が止まったような錯覚を覚え、俺は自分の心臓の音だけを聞いていた。 彼女が、足音を響かせて近づいてくる。
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