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其処は、昔「柏木」と言う姓の屋敷があった場所。
今は小さな祠が建てられ、そこには『早良』と言う少年が祭られている。
万年紅く色付いたままだと言う大きなカエデの木が、そして花が咲かなくなったと言う桜の木が当時のまま葉を広げ、秋になると血の匂いを漂わせながら『花いちもんめ』を歌う物悲しい声が聴こえて来ると言う。
一人の青年が、其の祠を通りかかった。
否、彼はこの祠に用事があった。
大事な大事な用事だ。
黒町屋の炎上事件があってから、ゆうに十数年の月日が流れていた。
不気味な噂の絶えないその祠の前に、青年は静かに佇み、跪く。
「…遅くなったな、早良」
彼の…青年の今の名は、東洲斎写楽。
昔、『柏木奈々尾』と名乗っていた男だ。
炎によってもたらされた額の火傷を髪の毛と布で隠し、其の姿は当時の彼からは想像も着かないほど男前になっていた。
「お前の言うとおりになっちまった…俺の方が長生きしちまったな。
今でも時々源三郎と逢って、お前を肴に酒を飲んでいるんだ」
「あいつと源の字に助けられたんだぜ?あの時…
あいつらったら、お前がどんちゃんやってる時に俺の居た部屋に来て、俺を助けてくれてさ。
そのまま俺抱えてとんずらこきやがって…」
「あれから…お前が死んだって…聞かされて…」
「未だに俺、運動できないんだぜ…だから、絵を描いて食ってるんだ。
お前の好きだった笛を吹いて、飯の為に絵を描いて、さ。…時々、お前の絵を描いて、源三郎の絵を描いて…
『似てねェよ!』って源の字に怒られるんだけどな、いつも」
「源の字な、あれから暫く俺の側にいてくれていたんだけど、故郷に帰っちまって。
でも年に数回はこっちに来るみたいで、会う度に早良が早良が、ってよ」
「あ、このごろ狛虎、表情がすっかり凛々しくなっちまってよ。
其れでもお前の話になると子供みたく泣きじゃくるんだ」
「…そんな姿の狛虎見てると、お前思い出しちまって…
無性に逢いたくて…
…死ぬほど逢いたくなってきてよ…
今でも、逢いてぇよ…
…俺の、早良。」
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