織田家武将等に関係するウンチク。

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織田信長が歴史の大舞台に飛び出した桶狭間の戦(1560年5月19日)について書きます。 この戦は駿河・遠江・三河のの覇者・今川義元と尾張平定間もない織田信長との戦です。 この戦の経緯としては、鳴海城にいた山口左馬助なる人物が今川家に通じ、鳴海城だけでなく近隣の大高城・沓懸(くつがけ)城までも乗っ取り、今川がこの三城に守備兵を投入し、これに対し信長が付け城として丹下・鷲津・中島・善照寺・丸根に砦を築いた事に始まります。 そして、今川義元が出陣した理由としては、鳴海城は先述した通り元々は織田領であり、今川にとっては大事な補給路であり、大量の兵を鳴海に送り込んだものの、付け城を築かれたので逆に城の維持が困難になる為、援軍として出陣したわけです。 つまり、義元の目的としては、鳴海・大高への補給と付け城による封鎖解除だったと思います。 これはかなり困難な事だと推測できるので、この段階で尾張を我が物とし、上洛を考えていたとは理解し難いです。 ただ長期的に見ると、旧領の尾張名古屋の回復も目論んでいたとは思います。 今川家としては、無理に力攻めして損害を出すわけにはいきません。 なぜなら、同盟を結んでいたとはいえ、隣国には武田・北条がおり、三河も安定していませんでした。 さらに、合戦直前に義元は三河守に就任し、家督もすでに氏真に譲っており、三河を義元が駿河・遠江を氏真が治めるという統治思想ができていた事も伺えます。 さらに、この段階では信長も義元を討ち取るよりも、長期戦に持ち込み今川を疲弊させ、退却させる事を目論んでいたのではないでしょうか? 信長としても義元を討ち取るより、戦を長引かせ退却させる方が現実的だったと思います。 さて、話を戻して決戦の二日前の五月十七日、義元は沓懸に到着し、翌日の晩に大高に兵糧を搬入しました。 前線からこの連絡を受けた信長は、この時軍議は開いておりません。 一説によると、軍議を開き林秀貞が清洲で籠城する事を薦め、信長がそれを却下したという話がありますが、普通に考えてありえないです。 籠城=砦の兵達を見殺しにする事であり、将兵の中には織田一族などもいるので、そんな事を言う筈もなければ、士気も低下し、今川に寝返る人物も出て来る可能性が出ます。 林秀貞といえば後に失却させられた人なので、後にこのような信長の勇敢さを際立たせる話に使われたのだと思います。
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