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伊達氏と奥羽の土地柄について書いていきたいと思います。
まず、戦国期(それ以前も)においては日本は一つという概念はありませんでした。
どういう事かと言うと、日本は「東国」と「西国」に別れており、その境目は駿河と相模の境目にあった「足柄峠」、信濃と上野の境目にあった「碓氷峠」であり、この峠にあった「関」で分かれていました。
つまり、関より東が「東国」、西が「西国」となっており、分かりやすく言えば「関東」と「関西」という事になります。
ここで現代的なイメージと違うのは、現代の関東といえば東京あたりを指すのが一般的なイメージだと思いますが、戦国期・それ以前の鎌倉時代等の認識によると、広い目で見ると東北地方なども関東に入ります。
逆に狭い目で見ると「関八州(相模・上野・下野・武蔵・上総・下総・安房・常陸)」に限定されます。
これが非常にややこしく、当時の史料等を見ると関東とか東国とか出てきますが、東北も含めてなのか、関八州に限定して言ってるかを間違えると意味合いが変わってしまいます。
そして東国を語るうえで欠かせないのが「征夷大将軍」です。
これは戦国期以前の話になりあまり詳しく分からないですが、日本では「蝦夷征伐」という軍事行動を度々行なっていました。
その蝦夷征伐のトップの官職が「征夷将軍(征夷大将軍)」であり「征東将軍」とも呼んでいました。
これは読んで字の如く「蝦夷を征伐する」という意味が含まれており、この征夷大将軍は「鎮守府将軍」という立場もあり、征伐に成功すれば朝廷の軍事司令官である征夷大将軍が征服地域の行政司令官も兼ねるという仕組みをとっていました。
「蝦夷」についてですが、蝦夷地の概念も時代によって大きく変わります。
蝦夷征伐が進めば進む程蝦夷地は狭くなります。
つまり、現代(江戸時代以降)でいえば蝦夷とは北海道だけの事を言いますが、平安時代でいうと奥羽に絞られ、古代においては最初に書いた広い意味での東国が蝦夷に当ります。
では、なぜ蝦夷征伐が行われたのでしょうか?
それは平安時代に、西国を基盤とする朝廷が中華思想(自国を世界の中心とみなす)に基づき、東国の蝦夷の民を敵とみなしていた事に起因します。
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