伊達家武将等に関係するウンチク。

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伊達政宗(1567~)について簡単に書いてみます。 よく伊達政宗は「遅れてきた英雄」とか「生まれるのが10年早ければ天下をとっていた」と言われていますが、果たしてそうでしょうか? 自分の今の知識と想像の範囲内では、そうは思えません。 しかし、政宗が「英雄」の名にふさわしい人物であるのは確かな事だと思います。 しかし「遅れてきた」というのはどうかと思いますし、自分的には時期的にはいいタイミングで生まれてきたと思います。 仮に誕生がもっと遅ければ、今程歴史に名を残していないと思いますし、逆にあと10年早く生まれていたら、史実よりも奥羽での基盤が盤石になっており、豊臣秀吉と一戦交え、小田原北条氏と同じような運命を辿っていたであろうと推測します。 個人的な想像で申し訳ないですが、10年早く生まれていれば天下を取っていたというのは問題外だと思います。 これは政宗に野心がないとか、実力がないとかいう意味ではなく、実力も野心も人並以上にはあったとは思います。 しかし、実力があれども天下を狙うにはあまりにも奥羽は遠隔の地と言えます。 そして、何よりも政宗自身が天下など狙っていなかったと思います。 彼が望んでいたのは、あくまでも奥羽での確固たる地位であり「奥羽独立国家」的なものだと思われます。 これを説明するには戦国期以前にさかのぼるので、また後ほど書こうと思います。 あと撫斬りの話や、御家騒動関連の話もかなりの誇張があると思います。 これも時代さかのぼるこでまた後ほど書きます。 ただ、奥羽は共存意識が強いですし、撫斬りした人数が当時の住民数を考慮するとあまりにも多すぎですし、政宗の最上義光(政宗は手紙をだしている)に対するデモンストレーション的なものであるでしょう。 あと父親の輝宗が畠山義継に拉致され、政宗が畠山義継を輝宗共々殺した話も政宗が仕組んだ気がしないでもないです。 まだあまり詳しく知らないですが、畠山義継が輝宗を拉致してどうするのでしょう? と思うわけです。 あと伊達家は後継者には「藤」の一字を付けますが、伊達政宗の場合は伊達藤次郎政宗と言います。 これは出自が藤原氏である為ですが、藤原氏の流れくんでいる以上やはり奥羽に執着があったと思います。
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