重秀誕生

2/3
前へ
/31ページ
次へ
 時は慶長5年、折しも天下分け目の大合戦が関ヶ原で起こった年であった。石田三成は西国大名を集め挙兵。9月5日早朝、家康軍と関ヶ原で対決した。東軍75000余人、西軍80000余人の大戦は小早川秀秋の寝返りにより終結。家康の天下統一が成し遂げられたのだった。  そんな年の冬の事である、美濃(岐阜県)にその男は本田家の産まれた。重秀と名付けられた男児は駆け付けた父に抱かれ産声を上げていたのだった。 「元気な男の子だぞ」 父重元は我が子を抱き上げた。  重元は武芸者であり、また兵法者でもあった。関ヶ原の合戦にも出ている。奇跡的に無傷で身籠った妻の元に帰って来たのだった。関ヶ原での功労を認められ、5000石もの財産を得たのだった。  重秀は何不自由なく育っていった。しかし、重秀が8歳の時である、天然痘がまん延した。重秀自身は生死の淵を何度か行き来したが次第に良くなり、やがて問題なく歩けるようになった。しかし、彼の両親はそうもいかなかった。  彼の両親もまた天然痘で倒れていた。布団から調度品まで真っ赤に染められた部屋(天然痘は赤を嫌うとされていた)で死の淵に立たせられていた。 「父上、母上」 重秀が何度叫んでも返事はなく、うわ言と重秀の叫びのみが部屋に響いていた。 「駄目です、お部屋にお戻り下さい。重秀様とて、まだ完治はしておられぬのです」 父の門弟によって部屋に戻された重秀は布団に潜り込むと父母の無事を祈った。  翌朝である、慌ただしく門弟が重秀を起こした。 「重秀様、お目覚め下さい」 「いかに」 「重元様が……」 「父上がどうされたのじゃ」 「……息を引き取られました……」 「……何故……何故か……」 「とにかくこちらへ」  重秀が行くと既に事切れた父が横たわっていた。わずかに死微笑を浮かべている様でもあるが、やはり剣を握った父とは別人であった。 「父上……」 それ以上の言葉は出なかった。喉元まで出かかった言葉は涙に遮られた。  それから後を追うように母もこの世を去った。父の門弟もまた去って行った。独りになった重秀は寺に預けられたのだった。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加