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助けて。助けて。助けて。
ある夏の深夜、そう命乞う声が静寂の中に木霊し、そして、消えていった。
声はある工場地帯から。月明かりは、そこを駆ける二つの人影を照らし出す。
一つはがたいの良い中年男性の、もう一つは見目麗しい二十歳くらいの美女のそれ。
二人は『狩り』の真っ最中だった。
追う者と追われる者とで奏でられる夜想曲。
だが奇妙な事に、追われているのは女性ではなく男性の方で、その顔には恐怖が深く深く刻み込まれていた。対して女性の方はというと、こちらは何を思うでもなく、黙々と、ただ無表情に男性を追っていた。
そんな逃走劇から数分後、息の上がった男性は一つの廃工場の中に逃げ込んだ。
錆びた金属の臭いが鼻を突く。だが唯一の光源を遮断したその空間は『漆黒』という言葉に相応しく、一寸先も見えない暗闇だった。
此処でなら、暫くは身を隠すに充分だろう。そういくばくかでも救われた気がして、男性は思わず膝を着いた。
しかし、それも束の間だった。そんなあらゆる色彩を塗り潰す漆黒が、一瞬後、見事なまで剥ぎ取られたのだ。
「……え……?」
廃工内が本来の色を取り戻す。異常な光景に男性は驚いて振り返ってみると、そこには先程の女性が――『追跡者』が立っていた。
女性は紅かった。髪も、瞳も、衣装も、全て。それもただの紅ではなく、まるで血を零したような深紅である。今まで逃げるのに必死だったし、大した光源もなかったせいで気付かなかったのだろう。
……いや、今はそんな事はどうでもいい。もっと注視しなければならない点が別にある。
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