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コンクリートの冷たい感触に身震いし、彼は目醒めた。視界を満たすモノクロームの色彩は、天井と壁の境さえも曖昧にさせる。
此処は、何処だ。
覚醒しきらず、ぼんやりと霞がかったような脳では、何故彼が此処に居るのか、その過程すら思い出すには至らない。酷く無機質なその部屋は、ただ痛い程の静寂に満たされていた。部屋には、己の他には二つ、見た目の異なる扉だけが存在する。
彼は躰を起こし、どうにか状況を理解せんとする。しかし、思考を巡らせようとするその度、何かを警告するように、頭の奥がずきりと痛んだ。
──…可笑しい。
否、目覚めた時から己の置かれた状況は異常で在った。しかし、それにしても、この事態は特異と謂わざるを選ない。何故ならば、彼が思い出す事が出来ないのは、行動の過程だけではなかったからで在る。
己は一体、何者なのか。
例え意識が朧気でも、喪失すべきではないその最重要記憶(データ)が、抜け落ちていると謂うのは、明らかに『普通』ではない。やがて彼は、結論に思い至った。彼が思い出す事が出来ないのは、彼自身に関する事柄全てだと謂う事に。
理解は、恐怖を招いた。
自分は、狂っているのだろうか。若しくは、誰かの作為的な操作によって、記憶を奪われたのか。仮にそうだとしたならば、一体、何故。己の全てを失った今、それを知る術はない。
彼は、暫し思い悩んだ末、立ち上がった。
兎角、この閉鎖された空間には、彼の記憶の痕跡はない。つまり、この鈍色の牢獄から抜け出さない事には何も始まらないと謂う事だ。外の世界に出たとして、後に何が待つかはわからない。しかし、彼の閉ざされた記憶を開く僅かな可能性は、こうして停滞を続けている間は、限りなく0に等しいのだ。それに、行動を起したとして、記憶のない自分に失う物は何一つない。彼は小さく息を飲み、二つ並んだ扉へと歩み寄った。
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