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何故、どうして、誰が、何時から。頭の中を、疑問と謂う疑問が駆け巡る。灰色の床に不気味に伸びた白い腕に、全てをぐちゃぐちゃに掻き回されているような錯覚すら覚えた。足ががくがくと震える。やがて、彼は力無くその場に崩れ落ちた。
三十半ば位だろうか、死んだように眠る…否、もしかしたら死んでいるのかも知れないその男の顔に、当然見覚えはない。東洋系の容貌は、しかし己の姿が明らかでない今、何の情報価値もなかった。無論本当に面識がないのか等、わかる筈もなく。彼は、ただ呆然とその情報を電気信号へと変換し、映像として脳に送り続けていた。
開かれた反動で揺れる鉄の扉は、きぃきぃと彼を嘲笑うかのように高く哭く。翳りを帯びた堕天使の微笑が、恐怖を煽った。色彩の乏しい床に転がる、色を失って微動だにしないそれは、本物の人間とは思えぬ程だ。
そうだ。もしかしたら、よく出来た人形なのかも知れない。我に還り、どうにか落ち着こうと、彼は一つ深呼吸をする。ゆっくりと全身に染み渡っていく酸素は、ほんの少しだけ恐怖を和らげてくれた。兎角、本当に人間なのか、生きているのか死んでいるのか、確認せねばならない事は沢山ある。彼は唾を飲み込むと、恐る恐る、男に手を伸ばした。淡い期待と、それを上回る不安。すぐ様、答えは明らかになった。
冷たく、柔らかな感触。
反射的に手を引っ込める。どう、と、背中に冷たい汗が急激に染み出した。こんな事が、有り得るだろうか。記憶を失い、幽閉され。極めつけはこの、死体。気が狂いそうだった。意味もなく、絶叫を上げたくなった。死体に触れてしまった部分の皮膚を、ひたすらに衣服に擦り付ける。赤くなる事も、擦り切れて血が滲む事さえも構わなかった。たった今触れた場所から浸食する死の冷たさを、彼は払拭したかった。双眸には、じわりと涙が滲む。
彼は泣いた。その理由も、意味さえも定かではなかったが、ただただ、涙は勝手に溢れてきた。
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