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後宮は広い。
建物の数も多く、管理されていない場所も少なくない。
例えば、嘗て彗が庚巴(コウハ)の嘘で呼び出され、襲われた暢音閣(チョウオンカク)は老朽化が進み、今は立入が禁止されている。その周辺もあまり手入れがされておらず、近づく者もいない。
暢音閣の前は広い空き地になっていて、棒を振っても誰かに当たる心配もない。
そこに、今は二つの人影があった。
ひとつは長身の男のもの、もうひとつは華奢な少年とも少女とも見えるものだ。
木刀を交わす音は、既に半時続いている。
二人には体格と比例して体力にも差があった。小さな影ーー彗は「ちょっと待って」と、その場に膝をつき、荒い呼吸を整える。
「大丈夫ですか?」
牙葵は踞る彗の前に膝をつく。
殆んど息の乱れもない牙葵に頷きながら、彗は自身と牙葵の体力の差に愕然とした。
流石はあの「蒼祥葵」が認めた人物だ。
技量なら、李伯の方が遥かに上だろう。
だが、牙葵の剣の重さと勢いに、彗の腕は根を上げていた。
「日も暮れてきましたし、今日はこのくらいにしておきましょう」
牙葵は彗の木刀を取り上げながら言った。
「早く着替えないと、汗が冷えて風邪を引きます」
彗が口を開く前に、牙葵は反論を封じた。
彗は不満そうにしながらも、素直に上衣を羽織る。
「やっぱり、全然敵わないね」
「いえ、正直驚きました。煌妃は剣技を習っていらしたのですか?」
王から『煌妃に護身術を教えてやって欲しい』と言われた時には、冗談かと思った。
だが先日の事件の後、煌妃から言い出したと聞いて納得した。
牙葵に人を斬らせたことに、彼女は強い罪悪感を感じたようで、礼と共に「軽率な行動だった」と詫びられた。
彗を守るのは牙葵の職務であり、武官である以上、人を斬る覚悟もある。彗が責任を感じる必要はないのだが、それが「蕉彗蓮」という人物なのだろう。
ただ、正直戸惑った。
女人に、しかも王の妃に護身術の指導など、前例がない。とは言え、王命に逆らうことなど出来ないし、煌妃が規格外なのは、今更だ。
まずは木刀の持ち方からか、それとも基礎体力をつけるのが先か…………そんな牙葵の杞憂は、手にした木刀を軽々と振る煌妃を見た瞬間に消えた。彼女には明らかに剣術の基礎があった。
「村に変わり者の師匠がいてね、元は都の武官だったらしいわ。それで、頼み込んで弟子にしてもらったの」
牙葵は首を傾げる。
「田舎の平和な村で、何故、剣が必要なんだと思ってるでしょ?」
彗はひとつに括った髪を解き、緩く纏めて簪を二、三本挿した。これから自分の宮に戻るのに、少年のような姿では帰れない。身につけた短衣と*袴子(クーズ)を長い上衣で隠し、藍嬰考案の帯を巻く。予め帯が結った形で細工がしてあり、一人でも着脱が簡単に出来る。
*袴子…………ズボン
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