雲瑠璃

7/15
10562人が本棚に入れています
本棚に追加
/1082ページ
(そんな事を言ったら「傲慢だ」と、師匠に叱られそうだけど) 何だか、無性に李伯に会いたくなった。 風にそよぐ竹林の音、静謐な風と、張りつめた空気、互いの呼吸が合った瞬間、間合いに飛び込む刹那の感覚ーーーー 「彗?」 藍嬰の声に、はっと意識が引き戻される。 「どうしましたの、大丈夫ですか?」 「うん……ちょっと意識が飛んでた」 彗は湯槽から出ると、濡れた身体に浴衣を纏う。こうして水分を取るらしいが、これにも彗は慣れない。その後、濡れた浴衣を脱いで下着と薄衣を身につけた。 浴室を出ると前室で待機していた女官達が彗に上衣を羽織らせ、濡れた髪の水気を手拭いに吸わせ、香油をつけた髪を丁寧に梳けずる。 その間、彗は大人しく座っていなければならないのだが、身体なんて手拭いで拭けばいいし、髪なんて自然乾燥させればいいと思っている彗は、この時間がまどろっこしくて仕方ない。なので、思考を飛ばす。 (今回の事も、悠芽が絡んでいるのかな…………) 東六宮は西六宮に比べ、格段に警備が厳重だ。そこで働く女官は身元も厳しく調べられる。これ迄、女の働きぶりに不審な点はなかったし、同僚からの評判も悪くなかった。 彼女から個人的に恨まれる覚えはない。 成功しても、失敗しても、命はない。 死を覚悟した行動は、まるで秦王 政(セイ)を暗殺しようとした荊軻(ケイカ)のようだ。 戦国時代末期、強国秦国の前に燕国は滅亡寸前となった。国の存亡をかけ、王太子 丹(タン)は、秦国王の暗殺をひとりの男に託す。その人物が「荊軻」だった。 『風蕭蕭(ショウショウ)として易水寒し  壮士一たび去りて復(ま)た還らず』 「風が吹きすさび、易水の流れも冷たい。 勇壮な男は、いったん去れば二度と帰ってこない」そんな意味の詩だ。 暗殺が成功しても失敗しても、彼が生きて戻ることはない。国境を流れる易水で白い喪服を着た丹と友人達が彼を見送った。 結局、暗殺は後一歩のところで失敗し、荊軻は殺され、燕は滅びた。 彗がこの詩を覚えているのは、時折、父が口にしていたからだ。梅の見える縁側に杯を二つ置き、誰かに捧げるように酒を継ぐ。 その時だけは、母は娘達を父に近づけなかった。
/1082ページ

最初のコメントを投稿しよう!