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その日は朝から雨が降っていた。
庭に立つ常緑樹の向こうに、鈍色の冷たい空が広がっている。
開いた窓から手をさし伸べ、霧のような細かな雨に触れた。その冷たさが、自身がまだ此の世にいるのだと教える。
「齋王様」
その声に、箕子は齋王の顔で振り返る。
「何か」と問えば、侍従が来客の訪ない
を告げた。
「煌妃様の使いが来ております」
齋宮を訪れる者は少ない。
そもそも神聖な場所である齋宮に入ることを許されるのは、限られた人間だけだ。
煌妃はその数少ない人間であり、長く灰色だった箕子の世界に色をくれた少女だった。
謁見の間に行くと片膝をつき、頭を下げる青年の姿があった。
「久しぶりですね、蒼武官」
「御無沙汰しております、齋王様」
箕子は牙葵に顔を上げるよう言うと、隣室に招き入れ、人払いをした。
小さな卓子と椅子、衝立があるだけの質素な部屋は箕子が最も落ちつける場所だった。
恐縮する牙葵を椅子に座るよう促す。
以前は王位しか招く事のなかった場所だが、今は彗や風立も訪ねて来てくれる。
「煌妃は元気にしているかい?」
「はい」
「先日、後宮の女官に襲われたと聴いたけれど」
牙葵は驚いて箕子を見た。
箕子は静かに微笑んで、手ずから注いだ茶器を牙葵の前に置く。
「彗を守ってくれてありがとう」
牙葵は「いえ」と呟いて、気持ちを落ちつけるように茶器に口をつけた。
箕子は従者経由で受け取った手紙を開く。
時節の挨拶にはじまって、箕子の様子を伺う言葉と、自身や匡李の近況などが書かれていた。
『庭に咲いていた梅と蝋梅を届けます。とてもいい薫りがしますよ』
箕子の唇に笑みが零れる。
「蒼武官、煌妃に返事を届けて欲しいのですが、懐に入れた物の始末が済んだら、此方へ寄って頂けますか?」
牙葵はぎょっとして、箕子を凝視した。
「…………全てご存知なのですか…………?」
「齋王と言えど、政治と無関係ではいられないのですよ。彗は私を『浮世離れした人間』のように思っていますが」
箕子はくすりと笑う。
「彗には内緒に」と言って。
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