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朱雀門を出ると、楊州へ向かう街道が南へとのびている。途中には旅人のための宿街も点在するが、その間は両側に田園風景が広がる長閑な道だ。
街道を東に逸れしばらく進むと、細い川に突き当たる。そこから川に沿って半刻ほど行くと、凰河(コウガ)の支流に合流する。
牙葵は支流の手前で手綱を引き、速度を緩めた。
少し離れた木立に馬を繋ぐと、小さな袋を手に川辺に向かう。
未明からの雨で水嵩の増した川は、いつもより流れが速い。
周囲は冬枯れた草に覆われており、ポツポツと見える民家の他は、雨に霞む山々が遠くに見えるだけの荒涼とした場所だった。
牙葵は濡れた雑草に膝をつき、(*)風帽を取る。
冷たい小糠雨が髪と頬を濡らす。
均した草の上に布を広げ、袋から取り出した木箱と紙銭を置いた。
手早く火をおこし、紙銭を燃やす。紙銭は、死後の世界で困らないよう故人に供える「あの世の金」だ。白く細い煙がゆっくりと空に昇っていくのを見つめ、牙葵は飾り紐が結ばれた木箱を水面へ置く。流れに乗り、たちまち見えなくなる木箱に向かい、手を合わせた。
『お願いがあるの』
彗を手にかけようとした女からと思われる手紙には、「凰河に繋がる川に自分の遺髪を流して欲しい」とあった。
凰河は黄州の南にあり幾つもの支流の水を集め海に注ぐ大河で、周囲には肥沃な農地が広がる。
女の出自は不明だが、恐らく黄州に縁があるのだろう。
『彼女の最期の願いを叶えて欲しい』
彗の頼みでなかったら、引き受けることはなかったろう。
それが誰かに命じられた事だったとしても、女が彗を殺そうとしたのは事実だ。
「お前は感情の起伏が薄い」と、祥葵などは言う。確かに、特定の誰かに腹を立てることはほぼない。
けれどあの事件の時、牙葵は確かに腹を立てていた。女に対しては勿論、彗の危機感のなさや、警備の弛さ、何より彗を危険に晒した自分自身に。
そして自覚した。
思った以上に自分の中で彗の存在が大きくなっている。
「はあ…………」
牙葵は手綱を解き、馬に跨がる。
濡れた髪を振り風帽を被ると、斎宮へと馬を走らせた。
(*)風帽…………外套のフード
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