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昭和48年3月、無事に高校を卒業した浩久は、すぐに米朝師のもとへ入門…と思いきや、しばらく実家の印刷屋を手伝っていた。 この時期やはり咄家になろうかどうか迷っていたらしい。当時18歳といえどやはり簡単に人生を決められるものではない。 そんな悩める青年に咄家になる決意をさせたのは、同じ堺市内に住む旭堂小南陵師(当時)の一言であった。 「今やったらチャンスやで。米朝師匠のとこ、米太郎君が内弟子明けて今米輔君一人やから。」 これで決心がついた。今なら一人や二人の弟子をとる余裕があると知るや、昭和48年の暮れ、米朝師匠のもとへ弟子入り志願に行き、明けて昭和49年1月14日(吉朝本人は16日か17日と証言していたが…)、正式に入門となった。 この時期大阪では毎年、十日戎が行われ、今宮戎や西宮神社ではかなりの賑わいを見せる。その福笹につける「吉兆」にちなんで「吉朝」と名前がついた。
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