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「高橋さんは、将来のこと、なにか考えてるの?」
さっきから担任の及川先生は、その独特な甘さのかかった声で、わたしに同じ質問を何度か繰り返していた。
わたしは真剣に考えるふりをしてうつむいたが、本当は先生のねっとりとした口調が気に入らない理由だとか、昨日の晩に読んだニーチェの詩集の感想だとかをあたまの中でまとめたりする作業を延々と続けていたのだ。
("及川チハルの必要以上に『女性』を強調した声はわたしに不快を与える 波長が、合わないのかもしれない 彼女の声はわたしの鼓膜にべっとりと張り付いて引き剥がせない まるで歯にくっついたチューインガム、いや、過保護の母親の視線?")
秋から冬への変わり目は、まだ寒さに慣れきっていないせいか、わたしは毎年、すこし北風が吹けば二の腕に鳥肌が立つくらいに温度に敏感になってしまう。
教室の窓が、カタカタと音を立てている。時々、枯れ葉が窓にひっついて、それから力を失ったかのようにはらはらと落ちていく。
たぶん外には、乾いた冷たい風がくるくるとつむじを巻いているに違いないのだ。わたしは、外に出ていくのがたまらなく億劫になった。
「なにか、興味のあることは?」
そんな肌寒い教室の中にいるのは、わたしと先生の二人だけだ。
ほんの30分前、授業が終わるとすぐに、先生は教室に入ってきた。
クラスの生徒達が続々とかばんを持って教室から出て行く、そのなかのわたしだけが不幸にも先生に呼び止められてしまった。
だいたい何を言いたいのかは見当がついていたので、わたしはあっさりと観念した。
クラスの中で、大まかな進路すら決まっていないのは、もはやわたしを残して誰も居なかったのだ。
「今、決めておかないと、卒業するときに後悔するわよ」
先生の気迫のせいで、向かい合わせでくっつけておいた机が、がたんと音をたてて揺れた。そこにひじを置いていたわたしは一瞬身体のバランスを崩し、あわてて先生の顔を見た。その表情はわたしの将来を心配したものと言うよりは、『面倒くさい問題をはやく解決したい』ときのわたしのそれと、似ているような気がした。
「あと、これ」
彼女が手のひらのサイズのフォールディングナイフを取り出したとき、わたしは思わず自分のスクールバッグの中身を探ってしまっていた。ない。やっぱり、ない。わたしはため息をつかずにはいられなかった。
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