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 俺はそんな自己中心的な苛立たしさから老婆を見ていると、ふとある事に気付いた。  先程見た、フライングで乗車した人間はこの老婆ではなかったか。  確かにその人物は、若々しくない後ろ姿をしていたが、顔を見ていないその老人をこの老婆と同一とするには甚だ行き過ぎている気もした。  しかし、一度思い込み始めた俺には、段々とそれがなくもない様にも思え、そうなると一段とこの老婆への不愉快さを募らせた。これだけ年を取りながら、社会のルールも守らずに、人が目の前で苦しんでるのに目を逸らすこの老婆が、酷く憎たらしく思えた。  そう思うと、俺の中で再び風が吹き始めた。  その音は今までに聞いた事のない程の激しい風で、俺の理性をみるみる内に削り取っていった。  俺は頭の中で、何度も何度も例の言葉を呟くと、必死でそれに抵抗した。風が奪った理性を再構築し、それを再び風が奪って行きまた、という具合で、俺は何とか理性を保っていた。  すると走っていた車体が、急にその動きを止めた。  また同じ様に人々は後ろに薙ぎ倒され、俺は体勢を立て直しながら外を見ると、窓からは住宅街しか見えなかった。  「申し訳御座いません。只今、この先のA駅において人身事故が発生致しました。その為、この車両はしばらくの間、停車させて頂きます。お急ぎの皆様には、大変……」  車内にそう言うアナウンスが流れると、乗車客は一斉に音を発し始めた。舌打ちをしたり、携帯電話で話をし始めたりと、それは様々ではあったが、俺はその中でも確かに強まっていく風を感じていた。  俺は人に押されながら、必死で何度も、呪文を繰り返した。まだ大丈夫、まだ大丈夫、まだ大丈夫……。  ふと顔を上げて老婆を見ると、老婆は薄目で辺りの様子を伺っていた。その口元には小さな笑みすら浮かんでいる様だった。  そうして俺と視線が合うと、その口元の笑みを途端に消し、瞼を完全に閉じて、いかにも眠っている様に憮然と後ろの窓に頭を預けた。  俺はそれを見て、もう呪文を唱える必要はないと悟った。
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