レ♯

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 その日は普通に出勤するつもりだった。  珍しく寝坊もしないで、突然入った日曜出勤にもめげずに、何とか乗った電車で、殺人事件が起こりさえしなければ。  その事件が起こった時、乗客は皆唖然としていた。  人身事故で一時停車した車内で、俺は少し落ち込んでいた。余裕を持って出てきたから遅刻はないが、しかし早目に出て課長に自慢しようという俺の考えは早くも崩れ去ったからだ。  そんな時、急に車内に鈍い音が響き、俺が振り返った真後ろで、高校生ぐらいの男が婆さんを殴っていた。  俺は、もちろん他の乗客達も、皆わけが分からないといった表情で、ただ唖然とするばかりだった。  しかし段々事態は変わった。老婆の様子が危険な状態になり、その高校生はあろうことか手を老婆の口に突っ込んだ。  そして顎が外れる鈍い音が車内に再び響くと、やっと思考を取り戻した乗客の誰かが、捕まえろと叫んだ。  俺はその高校生の後ろにいたから、慌ててその背中に飛び付いた。すると後から数人が、腕や足に飛び付いて、少年は笑っているし、俺や周りの連中は止めろって叫ぶし、悲鳴やら何やらで騒然とした。  その時、騒然とする車内で、一番近くにいた俺は、少年の言葉を聞いた。  「ずっとこうしたかった」  やがて車掌がやって来て、電車も動き出し、次の駅で事情聴取の為に降ろされる間、俺の頭にはさっきの言葉が残っていた。  「ずっとこうしたかった」  その言葉を呟く度、俺の中の何かが砕け、そしてそこには一陣の風が吹いた。  俺はその瞬間に、異常な程の興奮を感じていた。
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