ド(低い音)

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 「うるさい」  私は最初、この言葉の所在が分からなかった。ただ心優しき女子高生の酷く驚き、そして怯えた瞳が明らかに私に向けられているのを見て、それが私から発せられた物だと気付いた。  「そうやって他人に優しくして、気持ちいいんだろ」  その声は、明らかに私の物では無かった。しかし確実に私の口は、その言葉をつむいでゆく。  「私は今良い事をしてる、って感じで気持ちいいんだろ。この可哀想な人を助けてる、って優越感なんだろ」  少女は、明らかに畏れていた。恐怖に顔を引き吊らせながら、少しずつ後ろに下がっていく。  私はそれをゆっくりと追い掛ける――いや、私は明らかに彼女を追い詰めていた。私は今、どんな顔をしているのか。  「悪かったな、可哀想な人間で。ああそうさ。こいつは可哀想だよ。人の道から外れる事も出来ず、ただ普通を気取って退屈で下らない日々を過ごしてんだからな」  私の声、ではない誰かの声が語気を強めていく。  少女は少しずつ下がって行き、何もない売地へ入って、更に行き止まりに行き着いた。  私は頭の中で、何度も逃げろと叫んだ。でなければ叫んでしまえと。  しかし私の声は声には成らず、代わりに誰かの声が勝手に口から流れた。  「だけど俺は違う。俺は、こいつじゃない。こいつであって、こいつじゃない。俺は簡単に人の道を踏み外す事が出来る。ま、そう作られたんだけどな」  私は何が何だか分からなくなりながら、己の身体を操作しようと躍起になった。だが夢の中にいる様に一向に思う様にならない。  そうこうしている内に、私は己の掌から何かを掴んだ感触を感じた。  その瞬間、私は頭の上から幾多もの風が吹く切り裂き音を聞いた。公園に置いてきた新緑の影も、気付けば真後ろに迫っていた。  女子高生ははっきりと顔を歪め、恐怖に声も出ない様子だった。ただ私の右手の方を、揺れる瞳で見詰めていた。  「悪いな。こいつはずっと、こうしたかったんだってよ」  私の代弁者はそう吐き捨てると、手に持った先の尖った角材を振り上げた。
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