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陣は少女が目の前に座ったのを確認すると、義手である左手で髭を擦りながら、どこから話すかなと呟いた。
「まず、お嬢さんのお名前は?」
陣がそう尋ねるのを聞きながら、翼は自分が彼女の名前すら聞いていない事に気付き、何だか恥ずかしい気持ちになった。いくら苛立っていたとは言え、それぐらいは聞くべきだったなと思った。
「幸です。幸福の幸で」
少女がそう言うと、陣はいい名前だと誉めた。そんな二人のやり取りを聞きながら、翼はキッチンの下から紅茶の葉を取り出していた。
「そうだな、先ずは受け入れ易い話からするか」陣はそんな風に一人で納得した後、少し身体を乗り出して少女の胸元の懐中時計を指差しながら、「そいつは、君の大人になりたいって気持ちを示してる。君も気付いたかも知れないが、この町には子供しかいない。その時計は、その人間の大人への憧れを感じて、その思いが強い程、針が進む。見ていると君は、かなり針の進みが早い方みたいだけど、その時計の針が十二時を指すと君は晴れて大人になり、この町を出ていけるんだ」
翼はそんな陣の話を聞きながら、自分の黄緑色の懐中時計を手に持って見た。実際の時間で三年程動いていないその時計は、翼がどれ程大人になりたくないかを示している様にも思えた。
「そんな話、信じられない」幸はしかし、陣に向かって強い口調で言った。「大体、陣さんは大人じゃないですか」
陣はその言葉に、うーんと唸りながら、少し苦笑をした後、話を続けた。
「まあ俺は、多少特殊でな。それはいずれって事で、次にこの町についてだが、何の力でこの町が動いているかは俺にも分からん。ただ噴水は常に澄んだ水を流し続けているし、生活に必要な物は毎月届けられる。ただそれが誰の手によって行われているかは、正確には誰も把握してないんだ」
陣がそこまで話すのと同時に、ヤカンの湯が煙を吹き始めた。翼は火を止めると、陣がいつもしている様に、適当に紅茶の葉をヤカンに放った。
「やっぱり、分からない」
幸はそう言って、眉間に皺を寄せた。翼は彼女の後ろを通って、反対側の棚からコップを三つ取り出すと、再び同じ道程を通ってキッチンに戻った。
陣は、まあ理解しようがしまいが事実だけどなと幸に言い、乗り出していた身を背もたれに預けた。
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