一章

6/6
313人が本棚に入れています
本棚に追加
/46ページ
 「まあ、その気持ちは分からんでもない。俺も、お前と同じに何年も止まったままで、針の進みは遅い方だったからな。辛かったよ、あれは」  そう言って、陣は中空を見上げ少しだけ遠い目をした。しかし、直ぐに翼の方を見据えると、でもなと強い口調で続けた。  「そのお陰で、いや、ちょっと違うけど。まあなんだ、とにかくお前みたいなガキとも出会えた訳だし。何も悪い事ばかりじゃない」  そう言い放った後、陣は煙草吸っていいかと翼に問い掛け、翼がその判断を下す前に自分の直ぐ後ろにある窓を開け、ズボンのポケットから皺だらけの煙草を取り出した。火の点けられた煙草は、彼の義手の指の間に収まりながら、その紫煙を窓の外の森林に傾けた。  翼は、陣が煙草を吸い始めたのを見ると、椅子から降りて後ろにある扉に向かった。  「お、帰るのか?」  陣は口から吐く煙に乗せて、翼に形ばかりに尋ねた。翼はその言葉を聞くなり、大きな溜め息を吐いてから、  「陣さんが煙草吸い始めたら、帰れって合図だろ。俺、煙草嫌いだし」  陣は悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて、分かってるじゃねえかと言いながら、いやらしく翼のいる方向に向けて煙を吹いた。だが、陣の思惑とは外れて、その煙は直ぐに矛先を変えると、陣の頬を掠めながら窓の外に消えていった。  翼は扉の横に置いた、自分用の、まだたっぷり水の入ったバケツを持つと、それじゃまた明日と軽く手を振って扉を出た。  扉を閉めて、翼は先程とは違った種類の溜め息を深く吐きながら、あれが俺の育ての親だから嫌になるよなと思った。しかしその言葉とは裏腹に口元には小さな笑みを浮かべて、赤茶色の町の中へ歩を進めながら、うろ覚えの鼻歌を歌っていた。  翼が小屋を出ていった後、陣も同じ様にとても小さな鼻歌を歌いながら、煙草を吸っては、吐き出す煙を風に任せていた。しかしその瞳には、翼と話していた時の生気は姿を消していて、触れたら割れてしまいそうな空虚感が漂っていた。  「真っ赤なお鼻の、トナカイさんは、いつも皆の、笑い者」  陣は漂う煙の行き先を見るともなく見ながら、小さな声で歌っていた。
/46ページ

最初のコメントを投稿しよう!