争乱割拠・四

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争乱割拠・四

長宗我部元親が抗戦の決意をしていた頃、武田信玄は、典厩細川家当主の藤賢を召しだして、 新たに信玄の側近に加わった信玄の甥の武田信豊が言った、 「藤賢殿、将軍様よりの願いにござる。藤賢と阿波国勝瑞城主細川真之殿とは、足利尊氏公時代の細川定禅公からの同脈と聞いておりまする。そこで、今までの誼があると推察つかまつる。そこで、藤賢殿に動いて頂きたい。言っている意味はお分かりでございますな。」 というと、藤賢は冷や汗をかきながら、畏まって退室していった。 自邸に戻った藤賢は、密かに真之から、都の情勢を密かに流して、長宗我部勢の助力を求められていたのが感づかれたと思い、すぐに控えていた真之からの食客で使者としてきた細川昭元と面談し、昭元と同道してきた長宗我部の使者蜷川親長に内密で事情を話し、二人を阿波へ帰した。 途中、藤賢が匿名で密訴をして、それを受けて警戒に当たっていた沼間任世率いる水軍に、蜷川親長は捕縛され、別な航路を通っていた細川昭元は勝瑞城に戻り、真之に藤賢の伝言を伝えた。 真之は奸智を働かせ、土佐からの詰め番衆を一同に集めて酒を振る舞い、酔ったところを、主だったものを討ち果たし、その他を捕縛した。その合図を、事前にしめしておいた沖に停泊している安宅水軍に送り、安宅水軍はたちまちのうちに押し寄せ、荒木村重、中川清秀らの率いる部隊が勝瑞城に入った。 中川らが入った時、細川真之は刀傷を負って、琴切れていた。細川昭元が言うには、騙し討ちにした長宗我部将兵の逆襲の最中に斬り死にしたとのことだった。 死体の検分をした古田重然は、細川昭元に付き添って来ていた松井康之に、 「刀傷は、背からの心の臓を一突きが致命傷以外は、後付けのような傷に見え申すが、あってもおかしくは無きこと。」 といって検分を終了した。
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