争乱割拠・五

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争乱割拠・五

阿波の三好軍と対峙していた拠点の勝瑞城、海部城を奪還された上、讃岐の十河軍に脇腹を突かれる有り様となり、阿波の占領拠点を続々と失った。 この戦況に、長宗我部元親の重臣谷忠澄は、元親とはかり、従属化していた伊予の河野通直を通じ、小早川隆景と接触し、共同戦線をはることにした。 だが、河野家では、長宗我部からの離脱を目論む老臣戒能通森、平岡直房と、長宗我部派の金子元宅、妻鳥友春らが密かに対立していた。金子らは、宇和郡黒瀬城主西園寺公広にも助力を頼んでいたが、西園寺は既に京都の宗家西園寺家を通じて幕府に内通しており、密かに毛利軍に協調する能島水軍の村上武吉と袂を分けていた来島通総を、忽那水軍とともに味方に取り込み、幕府との連絡をとっていた。 そんな伊予の状態に、長宗我部軍と毛利軍の連携は不調に終わり、それどころか、豊後の大友宗麟が、逼迫する島津と龍造寺との戦いに支援の幕府のお墨付きを得たことで、立花道雪を日向の島津勢へ、高橋鎮種を肥前の龍造寺勢への抑えとする一方が、四国へ斎藤紀伊入道と水軍を派遣、筑前には田原親賢を派遣して、毛利と長宗我部に圧力をかけた。 日向の島津軍と対峙した立花道雪は、大友と日向国主伊東家の将兵を前に檄を飛ばした、 「数年前、我々は、この日向の耳川の合戦において大敗を喫した。両家ともに多くの諸将を失い陣容が薄いといえども、いま、この陣容で強力な島津軍に立ち向かわなければならん。この不肖なるわしが采配をとるが、後方ばかりでは指揮はとらん。もし臆する者ばかりならば、この足が不自由な道雪を乗ってる輿ごと敵中において逃げよ。されば道雪、この体にした雷がこもった刀を振りかざして、見事散ろう。決して、わしは逃げぬ、諸士とともに戦わん。」 というと、そばにいた吉弘統幸が、 「我ら、悔いなき戦いをして、この地に無念の最期を遂げた味方の仇を取らん。」 と気勢を上げ、全軍が奮い立った。
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