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争乱割拠・八
二本松義継の無惨な姿を見せられた義継の遺児国王丸は、すぐにでも繰り出して、父の遺体を取り返して、復仇の決戦を挑もうとしたが、母や重臣らに止められていた。
そんな中、父輝宗の荼毘密葬、七日弔いを終えた政宗は、総力を上げて二本松城を攻めようと、後退していた大森城から出陣した。
この報告を受けた二本松城は、仙道周辺の諸大名らに救援の使者を派遣した。この要請に、会津の蘆名が佐瀬大和守種常らを派兵、仙道添いの白河の前城主白河不説斎義親、政宗の父輝宗の弟石川城主石川昭光、政宗の祖父晴宗の娘で須賀川城主二階堂盛義の妻で二階堂家中の仕置きをしていた大乗院が、政宗の妻の実家三春城主田村宗顕のもとへ軍勢を殺到させた。
また、小高城主相馬義胤、大館城主岩城親隆は、常陸の佐竹義重が参戦することに呼応して、伊達攻撃の軍勢を出した。
常陸の佐竹義重は、自らは海岸沿いに北上し、また、佐竹南家の義久に、白河の養子となっていた次男喝食丸の支援をさせた。
伊達政宗は、二本松城への押さえを除いた軍勢を率いて本宮の観音堂山まで進軍した。反伊達連合軍は、佐竹家軍師佐竹義政が差配し、安積野に野営している蘆名軍は、蘆名家軍師荒井重信も佐竹家の要請に応じた軍略を示した。
蘆名軍は、高玉太郎左衛門、安子ヶ島治部を先鋒に会津街道から、他の連合軍は奥羽街道から本宮へ侵攻した。佐竹本軍と相馬、岩城は大滝根山周辺に堅固な防塁を敷いて待ち伏せしていた亘理元宗の堅守ぶりに抜くことが出来なかった。
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