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争乱割拠・十
一方、三河についた細川藤孝は、岡崎城で徳川家康と面談した。道中、三河の発展ぶりに警戒感を抱いた細川藤孝は、その様子をつぶさに、動向した甥三淵秋豪に記載させた。
徳川家康は、譜代家臣らと城外まで出迎えにきていた。脇には、鳥居元忠、平岩親吉、内藤清成、青山忠成、牧野康成らが控えていた。
細川藤孝は、あいさつもそこそこに、
「川も濁り出すと、それを見た者共は騒ぎ出すもの、治水は疎かにはできませぬな。余計なことをして、氾濫のもとにならぬようにしたいものでございますな。」
というと、家康は感じるものがあったらしく、
「いかにも。菱形の堤石にお世話にならぬようにしとうござる。将軍様には、そうお伝え願いたい。」
というと、藤孝は承って帰路についた。
家康は、藤孝一向が出立してから、渡辺守綱に内通者と詮索した石川数正一党の捕縛を命じたが、石川数正は、転仕を理由に国外へ退去していた。
さらに、追跡を命じようとしたが、酒井忠次と本多重次らが断固として同調せずに諫めたので、家康は追跡を断念した。
その頃、伊勢に潜伏していた北畠信雄、神戸信孝兄弟は、拠る城塞を悉く潰され、御在所山中をさまよっている中を、亀山城主関盛信が派遣した芝山秀時らの探索方と斬り合いになり、神戸信孝が深手を負って自害、信雄は日置大膳らに守られながら、命からがら逃げ延びた。
その頃、毛利討伐軍は、備中高松城を、黒田官兵衛の策で、水攻めにする一方、付近に堅固な砦を構築して、毛利軍の救援部隊を撃破していた。これを受けて、毛利輝元は小早川隆景と合議し、小早川家重臣鵜飼元辰を高松城に密かに派遣し、開城撤収を伝えたが、城主清水宗治は、
「領民、家臣に酷い籠城戦を強いてきた上、おめおめ開城などできようか。まして、このような状態で撤収など出来ぬ。我ら将らが、無様に逃げることなど出来ぬ。」
というと宗治は、一呼吸おいて、
「されど、家臣領民には、もはや、これ以上は苦労はかけられぬ。輝元様、隆景様には、この宗治が一身に責めを負って自害する旨をお伝え願いたい。」
というと、兄の僧侶月清を幕府軍のもとへ派遣して、城を出て舟上で自害して開城する旨を伝えた。
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