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四国平定・二
四国、九州方面の軍評定が本格的になされていた頃、米沢の伊達政宗が、留守政景を大将、泉田重光を副将、軍監に布施定時を任じて、大崎義隆の領土に一揆鎮圧の介入という名目で侵攻した。
それからしばらくして、新発田にいた直江兼続が水原親憲を先手に、庄内方面へ再侵攻し、本荘繁長を撃破、最上義光の領土へ侵攻、迎撃した最上軍を打ち破り、飯田播磨を討ち取った。
その報告に、武田信玄は、政宗の叔父国分盛重に事態を問責する密使を派遣し、相馬義胤と蘆名義広に安積野までの出兵を命じた、名目は伊達支援。
国分盛重は、密使に密書を与えて弁明する傍ら、今回の出兵に異議を唱えた村田宗殖が遠ざけられたこと、確信の情報ではないが、上杉の狩野秀治なる重臣が、政宗の近臣後藤信康を通じて接触を図ったことを報じた。
武田信玄は、出羽の諸大名に最上家加勢を命じる一方、奥州の大名葛西晴信と南部信直には、伊達の動きを注意するように命じ、大崎義隆にも警戒を命じた。
春日山城の武田勝頼は、跡部勝資と長坂虎房に留守居を命じ、直江津から上陸した佐渡の本間一族と合流して、新発田方面に出兵、直江兼続の与板城の近くで、鮎川盛長、樋口兼豊、その子小国実頼、樋口秀兼兄弟と対峙した。その状態を睨むように上杉景勝が出張って陣を敷いていた。
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