九州平定・九

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九州平定・九

一方、大友宗麟は、奈多鎮基・田原紹忍兄弟を、阿蘇大宮司家の惟光に送り、隣接する相良家の島津家からの離叛を早急に求めた。 大友家からの意向を受けた阿蘇家では、幼君惟光に変わり、木山紹宅、甲斐宗立、西惟延、仁田水惟栄らが対応を協議し、北里重義が密使として、相良家へ派遣された。 相良家も、若年の当主長毎に代わり、深水頼方、犬童頼安、的場自休、岡本頼氏が政務を見ていた為、阿蘇家からの密使は必然的に彼らとあった。 相良家中も、幕府方に気持ちは傾いており、特に深水頼方は、天草五人衆志岐麟泉、天草種元、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高からの周旋も受けていた。 その頃、天草五人衆も、大村家の重臣大村経基、大村純辰、朝永純盛、藤崎純久、渡辺純綱、今泉純近、宮原純房からの恭順斡旋を代わる代わる受けていた。その間にも、五島純玄、宇久盛長、西郷信尚、深堀純賢らの周辺の諸将が恭順を示していた。 数日して、山中鹿之助が、今山方面に陣所を構えるという噂も飛び交い、肥前攻略軍の副将島津忠長は、相良家中に援兵を出すように種子島久時の陣代野間家年、西村時安を督促の使者として派遣してきた。 また、島津当主義久は、相良家の動向に目を光らせるように、国境に島津忠辰を大将、伊集院忠棟、樺山久高、町田久倍、後醍院良任を派兵していた。加えて、梅北国兼、五代友喜、八木正信、吉利忠澄に大隅での徴兵を命じ、そのまま、島津義弘軍への加勢を命じた。 一方、幕府も四国の諸将に出陣を命じ、第一陣として、長宗我部元親・信親父子率いる土佐勢が、村上水軍により渡海した。
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