九州平定・十二

1/1
前へ
/224ページ
次へ

九州平定・十二

我が子と多数の自軍を中津留河原付近で失った長宗我部元親は、残兵を収容しながら、沖浜まで島津方、本庄主税助隊と交戦しながら後退、菅達長の水軍により離脱し、伊予国日振島に退却した。 大友軍も、辛うじて、鶴賀城、丹生島城に入り、守りを固めた。 大友・長宗我部軍を撃破した島津軍も、乱戦中に長宗我部家臣桑名親勝の矢を胸に受けた島津忠隣が夜陰に没した。その反面、近隣の柴田城を攻め、城主柴田礼能・統勝父子を討ち取った。 豊後国内の大敗を受けた大友宗麟は、各地の城塞に頑強に抵抗を厳命する一方、立花統虎には、島津義弘を引き寄せるために、筑前国宝満山城に後退させた。 島津義弘は、島津家久を丹生島城に差し向けて包囲させ、岡城に島津朝久を派兵した。 その頃、武田信玄は、細川藤孝を西国探題として急派して、その指揮下に宇喜多、山名、別所を付け、四国にも檄を飛ばして、軍勢の再編成をして、九州へ向かうように命じた。命令を受けた四国探題曽根昌世は、動員令をかけ、志摩の九鬼嘉隆にも協力を求め、村上、安宅水軍を加えた、強力な水軍をまとめた。 一方、島津家久の豊後国内の勝利に、肥前で龍造寺軍と対峙している島津歳久は、頑強に抵抗している龍造寺方の城塞攻略にてこずり、また、有馬、大村、相良に出兵を督促し、筑前の筑紫、秋月に圧力をかけて、従うように促した。
/224ページ

最初のコメントを投稿しよう!

828人が本棚に入れています
本棚に追加