九州平定・十四

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九州平定・十四

相次ぐ隣国での離叛に、当主島津義久は困惑し、島津義弘、家久、歳久に危急を知らせる使者を派遣する一方、島津忠辰を出水亀ヶ城に留め、伊集院忠棟を大口城に、樺山久高を阿久根、町田久倍を川内、梅北国兼、五代友喜、八木正信、吉利忠澄を比志島城を守らせた。 その頃、島津義弘は、降伏しない筑紫広門を勝尾城を攻め落として敗走させ、大宰府に本陣を設け、筑前の要衝宝満山城、立花城、岩屋城攻略にかかることにした。岩屋城には、島津忠長が主将として数万の大軍を持って攻め寄せた。守るは猛将高橋紹運以下、八百足らず。 押し寄せる島津軍を見る高橋紹運、 「さすが、島津かな。相手に取って不足なし。ここで、少しでも、我らが刻を稼げば、必ず、必ず、事態は好転する。そのためにも、少しでも多く、長い時間を戦わねばならぬ。あとは頼んだぞ、統虎。」 というと合掌し、守りについた。敵将島津忠長は、般若寺の本陣から、観世音寺の先陣から、降伏勧告をさせたが、紹運は無視したため、島津軍は岩屋城に攻め寄せた。簡単に攻略出来ると踏んでいた島津軍は、十日余りかかっても落ちず、増え続ける自軍の犠牲者に焦燥感が出た。ようやく、外郭の風呂屋谷砦、百貫島砦、東松本砦などが陥落し、本丸に迫った。 これを見て高橋紹運は、櫓に登ると、腹に刀を突き刺して、 「武士たる者は見よ、これが武士たる者の最期じゃ。」 というと、十文字に割腹して果てた。残る城兵も、玉砕した。 島津軍は、数千の死傷者を出し、勢いに乗って攻められなかった。 その頃、岡城包囲軍の島津朝久も、今までの敗戦に軍功を焦り、朝倉一玄の計略で空き城に入り、夕刻に始まった城の爆発により、多数の将兵を失って、家久のもとに退去した。
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