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火爪さんは震える足取りでゆっくりとその場から去って行った。
その時に何度も同じ言葉をボソボソと呟いていたようだったが、それもやはりセミの声に掻き消されて聞こえなかった。
「お前……何やってんだよマジで」
ゼリー飲料を一気に飲み干すと、叶さんは木暮先生を蔑むように息を吐いた。
「悪かったわよ、まさかあんなにあっさり転ぶとは」
木暮先生も木暮先生で、持ち前の前向きさが幸いして、災いしてと言うべきか、あまり気にもしていないようだった。特に驚いた風も無かったから、もしかしたらよくある事なのかもしれない。
「しかもコンタクト落としたし」
叶さんが目元をティッシュで吹きながら嘆息する。
「最悪だ。最悪の一日だ」
それは端からフォローのしようが無いほど、真理をついた言葉だった。確かに周りから見れば、これが彼にとって人生で一番悪い日だと思われそうだが、そうではない。おそらくだが、多々ある事のように思う。
女性恐怖症で、ドSの三つ子の兄がいて、過剰な愛を注ぐ弟がいて、いろいろな不幸を背負い込む彼にとっては。
「先生も探すの手伝うわ」
木暮先生の口調には、まったく悪気というものが感じられなかった。自分に責任があるとはこれっぽっちも思っていないような口ぶりだった。
「たりめーだ馬鹿誰のせいだと思って」
「碑乃村くん眼鏡無いの?」
叶さんの怒りなどものともせずに木暮先生が言葉を遮る。
「話そらしてんじゃねぇぞコラ」
まるでヤンキーのような気迫で睨み付けられても、鈍感なのか怖いもの知らずなのか、木暮先生はまったく動じる様子も無かった。
「いいから、あるの?無いの?」
「あるけど」
これ以上問答を繰り返しても無駄だと感じたのだろう。叶さんが呆れたように溜め息を吐いて答えた。
「じゃあかけてみて」
「調子乗ってんじゃねぇぞクソアマが」
楽しそうに手を振って促す木暮先生に悪態を吐きながらも、決して邪険にするような事はしていない。
本当に嫌だったら断ればいいのにと思うのだが、もちろん相手が先生だからという考慮は微塵も無さそうだ。
叶さんは胸ポケットから淡い緑色のケースを取り出した。中の眼鏡のフレームも、眼鏡拭きも、同じ淡い緑色だった。
「あっ似合うー」
叶さんが眼鏡を掛けて顔を上げると、木暮先生が見た目通りなのだが、子供のようにはしゃいだ。
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