一日前、午前

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 一時間程して、こつんとシャーペンの先で机を叩く音がした。  これは皇さんの癖で、執筆に詰まると始まるのだ。  こつこつと規則的な音が続く。  普段なら副部長の碑乃村叶(ひのむらかなう)さんが怒り出す所なのだが、生憎今日は不在だ。 「部長……」  原稿から顔を上げて、思わず息を飲んだ。  皇さんは、泣いていた。  ただ何も言わずに、黙って涙を流していた。 「ゴメン……うるさかった?」  目元を拭うと、皇さんは何事も無かったかのようにシャーペンを原稿の上に置いた。 「あ、いえ……」  何を戸惑っているのだ。  何故だか自分でもわからないが、この人の涙だけは見たくなかった。 「……菱荻、ちょっと」  皇さんが立ち上がり、窓際に向かう。 「あ」 「え?うわっ!」  その途中、皇さんが突然倒れた。  何の抵抗も無く、体が後ろに引っ張られていくように倒れていく。 「皇さんっ!」  ほとんど反射的に、皇さんを後ろから抱き締めるような形で受け止めた。 「……菱荻?」  皇さんが青白い顔でこちらを見る。  貧血か、日射病だろう。 「……窓、開けとくべきでしたね」  迂濶だった。  外の音を遮断するために窓を閉めきっていた事を後悔した。 「まぁ……気にする事じゃない」  いや、気にする事だろう。  皇さんはあまり自分の事を顧みる人じゃない。  いつも無気力で、周りに無関心で、人形のように冷たいと人は言う。  でも違う。  本当はほんの少しだけ、人より生きる事に不器用なだけだ。  だから皇さんはいつも必死で、周りに合わせようとしたり、人の輪に入っていったり、人らしくあろうと努力している。  そんな皇さんが、俺は好きだった。 「本当に菱荻が気にする事じゃないんだって。ただここ最近あまり食べてなくて」  皇さんは俺に心配を掛けまいと青白い顔で微笑んでいる。  こんなにも健気で、仲間には優しく、過剰評価と言っても過言では無いほどに仲間や友人を信頼する。  俺は皇さんの体を後ろから抱き締めたまま、床に転がったままになっていた鞄の中からゼリー状のエネルギー飲料を取り出して皇さんに握らせた。 「飲んでください」 「でも」 「でもじゃありません」  皇さんの手にエネルギー飲料を持たせたまま、キャップを外して口元に飲口を当てる。  皇さんは困ったように暫く躊躇していたが、ようやく少しずつ飲んだ。
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