一日前、午前

6/21
前へ
/32ページ
次へ
「……はぁっ」  一口にも満たないほど少量だが、皇さんは確かに飲んでくれた。 「大丈夫ですか?」  どうやら寝不足のせいもあるらしく、目の下にうっすら隈ができていた。 「どうします?」  誰かを呼んでくるかという意味だったのだが、皇さんはもぞもぞと動いて俺から離れていった。 「菱荻には、怖い物ってある?」  皇さんは半分身を起こした状態で尋ねた。 「怖い物……ですか?」  背中を向けているので、皇さんの表情も、どんな感情で言っているのかさえもまったくわからなかった。 「いや、無いですね。特に。虫も爬虫類も苦手だけど怖くは無いですし」  いや、本当は幽霊とか怪談とか犬とか怖い物は割とあるのだが。 「そういう部長は、無さそうですよね、怖い物」 「そう?俺にだってあるんだけどね。怖い物の一つや二つ」 「叶さんとか?」 「まぁ、叶は怖いけどさ」  皇さんが、困ったように苦笑する。 「でも俺が一番怖いのは……死ぬ事」  皇さんが言葉を発した途端、空気が凍りついた。 「俺は死ぬのが怖い」  皇さんが言葉を続ける。  真意が読めない。  怖いと言っているのに、まったくそう聞こえなかった。 「死んで、俺の事なんて皆、どんどん忘れられていって、それで」  すぅっ、と小さく息を吸う音がした。 「そしたら……俺の存在なんて、無かった事に……なる」  その時、ガガッと耳障りな電子音と共に放送を告げるチャイムが鳴った。 『高等部三年B組、福士皇君、至急職員室まで来てください』 「今日は……ここまでにしよっか?」  その時にはもう、先程のような空気はなくなっていた。  ただ俺は目の前にある皇さんの顔を見たまま身動きが取れなくなっていた。 「菱荻」  皇さんは瞬き一つせずに俺に目を合わせて立ち上がった。  真意の読み取れない目で。 「また明日」  ガラガラと音を立てて扉が閉まる。  そのあとは、足音一つしなかった。  足音一つしなかったが、皇さんはもう行ったのだとわかった。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加