硝子の向こう

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  ――泡が煌めくのは、儚いから。 光の屈折で幾重にも広がる水の泡、水の揺らぎ。胎内を巡る水が勧ぶのは、還って来たからだ。幾千年、幾万年の時を経て、母の元へ。 水面に手を伸ばせば、泡が浮き立つ。そして透ける皮膚。光も闇も、生命の一部なのだ。水の中にいることで、生きていると確信できる。自分は自由だ。衝動に縋りながら泳ぎ出そうとすると……制限が掛かる自らの尾鰭。激痛が走る。食い込んで擦れた鱗から、出血して水に溶ける。気泡は踊る。彼女の価値のある涙を纏って。 「イレーネ」 誰かが自分を呼ぶ声。 優しい。異形の種族を快楽で痛め付ける人間とは、違う声。 「イレーネ、平気……?」 ――叩いても音すら響かない、厚い硝子の向こうに居る貴方。 ごめんなさい。私、喉を切られたの。大好きな唄も歌えないのです。大好きな貴方の名前を呼ぶ事も出来ないのです。 何故こんなに、彼は泣きそうな顔をしているのだろう。彼女は、自分を見上げて硝子に付く青年の掌に、そっと指を這わす。すると彼の右手は、あの鉛玉を撃ち込む恐ろしい武器を持っていた。 「イレーネ、ごめん、俺は……」 ――何故、貴方は泣きそうな顔をしているの。 イレーネは微かに聞こえてくる、青年の言葉を必死で聞き取ろうとする。振動として伝わる、彼の優しい声を。 「頼むから」 彼は武器を床に捨て、水槽と彼女の尾鰭を繋ぐ足枷を見る。その瞳は潤んでいて、気泡のような不安定さで、今にも弾けてしまいそうだった。それでも光は降り注ぎ、少しでも寄り添おうと身じろぎした彼女の髪を、水はゆるく舞わせる。  
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