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「それは?」
「気にしないでください」
紙の擦れる音が大きく聞こえる。グラウンドにいる運動部員の叫声の方が、はるかに大きいに決まっているのに、私は聞こえなかった。人間の五感なんて、曖昧でいて利己的だ。興味のあるものにしか、反応しない。
逃げることに諦めた私は、封筒を対峙する相手に決めた。先輩は、いないことにした。
偶然か必然か、それとも先輩の策略なのか、鞄の中を探ると、古いノートが発掘された。それは幼い頃、親友と二人で落書きをしあったノートだった。いつ入れたのか、記憶にはない。それには封筒を解読する暗号が記されていたことは、覚えている。
帰りには病院へ立ち寄る予定もあるので、解読して持って行こうと思う。立ち寄る予定とはもちろん、自転車奪回のことだ。
「では気にしないことにします。一つ質問をしてもよろしいですか?」
「いいですよ。」
ノートを捲る度、奇想天外な絵画が眼球を攻撃してくる。何を描いていたのか、わからない。それが逆に、ぼやけた思い出を脳裏へ浮かべさせた。懐かしい。
「ハンカチ、いりますか?」
「大丈夫です。」
思い出だけでは飽きたらず、ノートも同じくぼやけていく。私はどうやら泣いているらしい。自覚すると、嗚咽が漏れた。
急に溢れてきた水分は、弱い表面張力で目尻に留まる。こんなことは初めてだ。普段なら気付いて当たり前の現象に驚いくとは。
殺人現場や遺体を見ても、涙なんか出なかった。自分の涙腺の弱まるタイミングが計れない。
「涙は無理に拭うと、目が腫れます。触らないように」
「あ、りがとう、ございます。」
いらないと言ったハンカチは、頬へ流れ落ちた滴だけを掬い上げた。無駄な抵抗はやめて、柔らかな感触を味わう。次第に水分は全て、ハンカチへ移行してしまった。
先輩を見ると、いつもと同じ笑顔をしていた。何も変わらない。それが妙にくすぐったくて、恥ずかしいと思わせて、涙腺がようやく落ち着いた。
もう一度、改めてノートを覗く。涙は出なかった。
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