くどいようだが男は売れない絵本作家だった。

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「誰かと勘違いをしてるのではないですか?」 「絵本作家の××さんですよね?絵本の帯に写真が載ってたから、多分あなたで間違いないと思います。ファンなんです、サインください」 ファンなんです、ともう一度少年は呟き、鞄から一冊の本を取り出した。 七色という悪趣味な色を光らせている魚が表紙で舞い踊っている。 うわぁ、と男は心の中で呟き、何だか死にたい気持ちになった。 羞恥をこらえつつ見てみると、やっぱりそこには魚が踊っている。 その本は、男が一番初めに出版した絵本というやつだった。 そこそこは売れた。 でも、そこそこ以上に売れる事はなかった。 けっこう自信作だったのに、ヒットする事などなかった。 だから、もう二度とこの本は見るものかと思っていたのに。 まさか、こんなところでまた対面する破目になるとは…。 「ファンなんです」 「うん。それは分かった。ええと、ありがとうございます…」 ファンと言ってくれる人がいたという嬉しさと。 目の前に差し出されたデビュー作に対する恥ずかしさとで、男はどんな表情をするべきか迷いつつも、相手から絵本を受け取る。 ぴらりと、表紙を捲って、そこに不慣れに自分の名前を綴った。 捲った一ページ目に『××』と男の名前が書かれたそれを受けとって、少年は目を輝かせる。 「ありがとうございます。大切にします」 「いや」 今にも飛び上がって踊りそうになるほどにニッコリと相手は笑みを浮かべた。 そんなに喜ばれると思っていなかった男は、少し拍子抜けしてしまい、何と言えば良いのか分からなくなってしまった。 何だか相手に悪いような、そんな気持ちにもなってくる。 先日本屋で見かけたあの山積みされた小説の作者のサインならともかく、こんな売れない絵本作家のサインなんて持っていても、得なんてしないのではないかと思ったのだ。 なので、声をかけた。 「少し、話でもしないか?」 少年は、「うわぉ」と、感嘆とも驚きとも狂喜ともつかない微妙な声をあげ。 「い、良いんですか?」 と、神妙な面持ちになって尋ねてきた。 男は頷いた。 自分から誘っておいて断るだなんて馬鹿みたいな真似、彼にはする理由がなかったからだ。
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